とら目線

創作と向き合う

保障を求めなければ

友人がブログを更新していた。非可逆的なものに対する恐怖、死、デジタル時代の「あたたかみ」……なるほど。

nvs-nk.hatenablog.com

読んだ後「保障を求めなければ非可逆的なものに圧倒されなくて済むのかもな」と感じた。保障を求めないとは、アフリカのサバンナで生きるという意味ではない。また経済的に裕福で国家に社会保障費を負担してもらう必要がないから求めないわけでもない。精神的に「なくても良い」と感じられる状態である。当然外から見ても分からないので本人の感覚に委ねる外ない。

 

社会的に疎外されている状態がデフォルトの私にとっては身近な話題だ。孤独は死に近づくことだ。脳が孤立を避けようとしていると示す文献は幾つもある。それは死を避けるための機能である。

しかし「死の方に突っ込んでいく」としたら?

保障を求めない態度は必然的に死を内包する。少し先の未来でも生きているか死んでいるか分からない。逆説的に言えば、保障を求めるとは可能性の分岐から死だけを排除する行為だ。自分自身から死を疎外する。そうして私たちは安心を得る。

「死を避けようとしない」とも表現できるかもしれない。常に死が私の隣にあること。人間には生まれた時から死を避けようとする機能がついている。寂しくなれば群れる。腹が減れば満たす。傷つけば治療する。それ以上を求めると歯車が狂い始める。

吹き荒れる風が織りなす雨音は

遥か遠く見えた大地の唄になる

黄金色に輝く瞼の景色と

やがて来る祝福の日々のため

Aimer/Torches

何事も程々がいいのかもしれない。

 

サラリーマン・ニート・旅人

共通点が分かるだろうか。一見すればバラバラに見えるかもしれないが、三者共にある「罠」に陥りやすい。可逆的な状態に安心を抱きやすいという点だ。参照した記事に「音源取り込みの際は安心感を得るためmp3ではなくFLACを選択している」とあるが、これは「後日FLACのままでも使えるしwavにデコードも出来る」という意味だろう*1。この状態では選択肢が増えたように見える。「FLAC/wav/mp3を選べる*2」と考えれば三択。それがデジタル時代の「あたたかみ」だと筆者は解説している。しかしこれが「罠」である。この状況は「FLAC/wav/mp3を選べるという一択」の選択をしているに過ぎない。未来の選択肢は残るとしても、現在を自在に操れるわけではない。

先に挙げた三者は人生をかけてこの状態を体現する。サラリーマンなら「昇進できるかもしれないし、そのままかもしれないし、転勤があるかもしれないし、辞めるかもしれない」。ニートは「何にでもなれるかもしれない」。旅人は「明日も旅を続けるかもしれないし、辞めるかもしれない」。

もうお気づきだろう。これは選択肢を幾つも保持しているように見えて実際そんなことはない。サラリーマンなら「昇進できるかもしれないし、そのままかもしれないし、転勤があるかもしれないし、辞めるかもしれない状態」が延々と続いていく。ニートを辞めない限り「何にでもなれるかもしれない状態」が続く。それこそサラリーマンやニートが持つ固有(一択)の状態だからだ。

 

自営業者は「罠」にかからない

自営業者や職人の方がこの感覚に陥りにくい。ラーメン屋の店主が「明日もラーメン屋を続けているかもしれないしそうでないかもしれない」と呟いているのを見たら、経営状態が悪いか隠居したいかの二択を想定するだろう。殆どの場合、ラーメン屋の店主は「明日もラーメン屋を続けている」と思っている。即ち一択の現在を選んでいる自覚がある。

 

サラリーマンが幸福になる方法

先ほど挙げた三者の中で最も"予後"が悪いのはサラリーマンだ。ニートと旅人は「罠」に気付きやすい、使った分だけ金が減るからだ。「何にでもなれると思っていたのに今はニート以外の何者でもないじゃないか」と現実に直面するチャンスがある。

サラリーマンはそれがない。働いた分だけ金は増えるし社会保障も充実している。だから(まだ自分に)選択肢は沢山あると思っている。現在進行形で"サラリーマン"という固有の状態から逃れられなくなっているのだが。

ただサラリーマンになるのが悪いわけでは無い。実際に会社を勤め上げ、定年を迎えた後で穏やかな生活を送っている人たちに会ったことがある。他者の意見を否定せず時には示唆に富んだ意見を送り、温和な表情で常に協調的な姿勢を崩さない人。組織心理学でいう「giver」を体現したような人。ここまで立派な方は知る限り一人しかいないが、老後(100%でなくても)この状態になれる人には共通点がある。社会的に成功していることだ*3。例を挙げると会社の役員だったり高級住宅街に土地を所持したりしていた。即ち現役時代に社会的地位と財産を築きあげているのだ。

 

サラリーマンの本懐とは

Salarymanは読んで字の如く「給与を得る人」だ。そして退職後に幸福な人は現役時代に確固たる財産を築いている。即ちサラリーマンの本来の意味である「給与を得る」という部分で成功している。彼らは自営業者と同じく自身の責務を知っていた。そして忠実にその責務を遂行したのである。

 

学歴社会の延長線

偏差値で価値が決まる学校と協調性が求められる就職後のシステムは別物に見えるが、実のところ明確に結びついている。先ほどの幸福な人たちは「社会的偏差値60-70」と言える。サラリーマンは給与を稼ぎ、自身の(社会における)偏差値を上げていくことで幸福度を高められるはずだ。その点から言って「勉強するのは選択肢を増やす為」という意見はまるっきり的外れである。沢山勉強すればサラリーマンになる確率が上がる。つまりサラリーマンにしかなれない可能性が高まる。勉学にせよ芸術にせよ「(成功するなら)同分野の偏差値60以上を目指さなければならない」のが真実だ。勉強して選択肢を増やそうとするのは結局「何にでもなれるかもしれない」(一択の)状態を引き起こす可能性があり、危険しかない。非可逆的なものから逃れようとする試みは「自分の選択肢が増えている気がする」という思い込みに着地するのである。

 

未来は可能性だらけ ---死を排除しなければ---

現在を中途半端なものにして安心感を抱こうとするのは一般的なことだが、私は勧めない。代償として膨大な時間を失ってしまうからだ。現在が非可逆的なのに対して未来は可能性に溢れている。そちらに目を向けた方がいい。

噂によると夢は生き物で

愚痴や言い訳で

すぐに弱っちまうらしいんだ

唯一の好物は可能性 良かった

俺やあんたも腐るほど持ってる

MOROHA/三文銭

但し注意点がある。未来に希望を持つ上で死を排除するとポジティブに偏りすぎる。それはそれで現実から目が逸れた状態になってしまう。「上手く行くかもしれないしそうでないかもしれない、その上で明るい未来に期待を膨らませる」くらいが良い。冒頭の文章と繋がるが、何事も程々が良いのかもしれない。夢想的な期待はせず、かといって現実を悲観的に見すぎず、着実に進んで行けば安定したマインドを保てるはずだ。

絶えず川が流れるみたいに

生き永らえたらまだ増しだった

立ち止まりたいけど立ち止まれない日々を

さぁ 生きている

tacica/GLOW

私に褒められても嬉しくないかもしれないが、記事を書いた友人は優秀な人である。協調性の欠片もない私と違って常に他者を肯定的に受け入れようとしているし、ステレオタイプな価値観に従って人を判断しようとしないし、自身を客観視しつつ慎重に歩みを進めることも出来る。未来の自分にほんのりと期待しつつ、頑張っていただきたい。

 

*1:勿論mp3等に変換も可能

*2:一旦他の形式は考えないことにする

*3:詳しく言えば「同世代と比較して社会的に成功しているのが確定的である」