とら目線

創作と向き合う

「推し」で心はみたされる? -21世紀の心理的充足のトレンド- を読む

以前から「シロクマの屑籠」を読むことがあり、運営者である「p_shirokuma」氏(以下シロクマ氏)氏の記す文章に共感したり(勝手に)反発したりしながら楽しんでいたのだが、今回「推し」がテーマの書籍を発売したということで、二次元コンテンツにどっぷり浸かっている私なりの見方が出来そうだと思い手に取ってみた。

全体の感想は後回しにして、とりあえず書けるトピックからどんどん触れていく。

 

消えたアルファツイッタラ

私がTwitter(X)を始めたのは2014年頃だ。当時割とありふれた存在だったものにアルファツイッタラーというのがいる。もしかすると聞いたことがない人もいるかもしれない。彼らはいったい何者なのだろうか。

アルファツイッタラーの定義は場所によってまちまちだったが、基本的には「全く社会的な背景を持たず、純粋にSNS内の集団若しくは個人のみで一万人程度のフォロワー数を獲得しているTwitterの利用者」と位置付けられる。つまり俳優であるとかアーティストであるとか、特定の企業に属している偉い人ではなく、単なるSNSの一利用者なのだが、どういうわけか一万人程度のフォロワー(大抵はフォロー数も同等)を得ている人たちだ。断っておくと、彼らは殆どが個人的に優れた業績や特筆すべきスキルを持っているわけでは無く、場合によっては普通の学生であることもあった。しかし一万人のフォロワーというのはただそれだけで圧を放つものがあり、今考えると本当にしょうもないのだが、アルファツイッタラーがとある界隈に属するだけで話題になったり肯定的に迎えられたりした。ただ気質的には一匹狼が多く、数多の界隈で揉め事を起こして結果的にアルファツイッタラーに辿り着いた人もいて、名前を調べると悪評で埋め尽くされていることも多かった。良くも悪くも影響力を持った人たちだったのだ。 

このアルファツイッタラー、私がTwitterを始めた頃は「大体一つの界隈に一人はいる」くらいの出現率*1だったのだが、いつの間にかほとんど見かけることはなくなった。確かにSNSで名を馳せ有名になる一個人というのは今でもいるのだが、昇り詰めると直ぐに社会的な影響力を持つインフルエンサーとなってしまうパターンが多く、当時の「フォロワーが多いわりに何の権威も持っていない個人アカウント」というのは本当に見かけなくなった。一体どんな変化が起きたのだろうか。

 

過疎化するニコニコ動画、投稿者は何処へ

アルファツイッタラー減少の謎を追うために、一度ニコニコ動画(以下ニコ動)へと話題を切り替える。ニコ動は言わずと知れた「文字の流れる動画投稿サイト」で、私が最初に触れた「社会的に交流の持てるインターネット」でもあった*2。2010年後半からサイトに足を運ぶようになっていたと思う。

当時ニコ動には「無駄に高いスキル」を持ち、それを自身が楽しむ、又は周りを楽しませるために発揮している動画投稿者が多く存在していた。彼らは動画投稿という作業を通じて間違いなく社会的な承認を得ていたし、実際にスキルも活動を続ける中でどんどん高まっていっただろう。しかし2024年現在、ニコ動に当時ほどの活気はない。直感的に考えるとおかしい。自身の承認欲求を満たせる場なら他のことを後回しにしても留まりたいと思うはずだからだ。しかしそうならなかった。一体何が起きたのだろうか。

潮目になったのは「第一回 ニコニコ超会議*3」だ。それまでのニコ動は投稿者を起点とした横の繋がりでネットワークが構築されており、運営が介入する余地は殆どなかった。しかしニコ動の注目度が高くなり規模が拡大する中で徐々に運営主導のイベントが開催されるようになり、その目玉として企画されたのがニコニコ超会議だった*4。また同時期からニコ動でのアニメ配信が始まり日々のランキングに公式の作品が食い込んでくるなど、少しずつ「素人の遊び場」としてのニコ動は衰退していった。

詳細は省くが、素人とプロの境界線が切り崩された結果、数多のゲーム実況者やアーティストがニコ動から羽ばたいていった。最も有名なのは「ハチ(米津玄師)」だろう。プロに転身した動画投稿者は三桁で効かないかもしれない。それくらい一般層に対しても彼らの存在は馴染んでいった。

私はこの変化を必然のものと捉えている。端的に言えばニコ動は自身の役割を終えたのだ。生まれてきた意味をきちんと果たし、次世代にバトンを繋いだ。ニコ動自体が衰退しても、そこから羽ばたいた著名人は多数活躍しているのだから問題はない*5

 

さて、アルファツイッタラーに話を戻そう。結局彼らの役割は何だったのか。それは(本書の言い回しを借りると)「透明な集団の中でナルシシズムを満たしてくれる存在」だったと言える。2010年代前半のTwitterは「RT(現リポスト)」を中心とした大規模なSNSに発展していたものの、企業の公式アカウントが積極的に動画を投稿したり、消費者にコンテンツを提供することは殆どなく、単に情報を宣伝するための存在に留まっていた。つまり当時の集団は「面白そう」「ここにいたい」と感じる個人の自由意志に基づいて組織されたもので、どの集団に所属するか、活動内容を何にするかも個々人に委ねられていたのである*6そういった「透明な集団」においてナルシシズムは重要視されず、個々人がどれだけ集団での生活を楽しめるか、自身の活動を充足させられるかに比重が置かれていた。しかし、それだけでは何となく物足りない。集団内でナルシシズムを充たし合う相互承認は出来ても、外部からの影響が全くないのは寂しい。

アルファツイッタラーはそういった寂しさを埋めるために存在した「器」だったのではないだろうか。要するに著名人の代わりだ。ニコ動では「投稿者」と「視聴者」の差が明らかであり、関係性も固定されていた。しかし消費と提供の分断が曖昧だったTwitterではナルシシズムを充たせる「大物」が不在の状況であり、ここに一般の利用者も入り込む余地があった。私たちはアルファツイッタラーの発言に影響を受けたり、彼らと交流したりする(反発も含む)ことで「理想化自己対象」「鏡映自己対象」を体験していたのである。

 

「推し」の台頭と個人の衰退

ここで当時のTwitterやニコ動の存在意義を揺るがす怪物が現れた。「推し」だ。2010年代後半からじわじわと広まり「巣ごもり需要」と共に爆発したこのワードは素人と公式の分断を一気に加速させた。作る側は作る方に、見る側は見る方に。

やや先走ってしまったので一つずつ説明していこう。まずニコ動では動画投稿者(配信者)を通じてナルシシズムを充たしていた。動画投稿者の有名になる様を見て「理想化自己対象」を体験し、配信者にコメントを読んでもらって「鏡映自己対象」を体験する等の方法があった。

次にTwitterでは主に自身の所属する集団内でナルシシズムを充たしていたが、それだけでは自己完結型の欲求充足となってしまうので、時折アルファツイッタラーを使って「理想化自己対象」「鏡映自己対象」を体験することがあった。

どちらもプロではない動画投稿者や単なる一個人からナルシシズムを充たしていたというのが重要だ。Twitterは自身の活動が最も重要視されるものであり、アルファツイッタラーの存在はあくまでも補助的な役割であったことを明記しておくが、どちらにせよアマチュアの交流によって全体の流れが完結していた。

 

それを揺るがしたのが「推し」だ。彼らは企業のバックアップを受けて活動する。自分以外の手も借りながら規模を拡大していく。つまり私たちが自分の力で充たしていたナルシシズムを簡単に提供してもらえるようになった。

結果はどうか? 見ての通りだ。ニコ動を見ている人なら分かるはずだが、当時の動画投稿者というのは月一回投稿があるかないか、ゲーム実況者でも週一回といった様相であった。個人の活動ペースは明らかに企業がバックアップする「推し」に劣る。しかも企業は自分たちの社名において失敗するわけにはいかない。まあ「巣ごもり需要」が発生したころに台頭したVirtual Youtuber(以下Vtuber)は「失敗の歴史」と言ってもいいほど日夜やらかしていたわけだが、それでも投稿ペースが実生活に左右される動画投稿者やメンタルを病んで過去の動画を全て消したりする配信者に比べると活動頻度もモチベーションも安定していた。

これは私たちが意識して充たそうとしていたナルシシズムが社会的に提供されるようになった過程である。ニコ動は下火になりアルファツイッタラーは消えた。それ自体は進化の産物であろう。求めていたものの価値が広く認められ一般に届くようになったのだから。努力は実を結び、私たちは勝った。もうニコ動を使って投稿されるかどうか分からない動画を待つことも、SNSに入り浸って自分を大きく見せる必要もないのである。

 

さて「戦後」の私たちは幸せになっているだろうか。うーーーーーん……どうなんでしょうね? 概ね満足? そりゃ結構。しかし「推し」の広まりに付随して発生した不幸も相当数あったように見える。一番は「推し」が余りに浸透しすぎて概念に振り回されるようになったことだ。「推し」に接する時の振る舞いとかお金の落とし方と言った「常識」が確立した結果、ファンの活動がグルグル巻きの鎖に縛られるようになった。

もう一つデメリットとしてあげられるのは「自分たちでナルシシズムを充たそう」という向きが消失してしまったことだろう。能動性が無くなってしまった。まあ当然の結果だ。どれだけ足掻いても企業の作り上げる完璧な「推し」には勝てない。なら自分自身の可能性を見限ってしまっても無理はないだろう。

 

「推し」の展望と本書に対する批判

ここまでを纏めよう。私たちはSNSや動画サイトを使ってナルシシズムを充たしていたが、それらは企業のバックアップを受けた「推し」に取って代わられた。個人の力で「理想化自己対象」や「鏡映自己対象」を体験する必要はなくなったが、代わりに「正しく推す」ためのルールが蔓延り、承認を巡る集団内の競争も発生するようになった。皆が「推し」からの反応に渇望し始めた結果、私たちは自身が選んだ(アマチュアの)他者や「透明な集団」からもナルシシズムを充たせることを忘れてしまった。今日も「推し」から過剰とも言えるほどの情報が提供されており、それを受動的に享受している…………

現状をポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかは貴方次第だ。私は「間違いなく地獄だが社会の進展としては悪くない」と考えている。「推し」を取り巻く環境は際限の無い欲望レースだ。そこだけ見ると間違いなく地獄である。しかしここまで述べてきた通り、私たちは個人レベルでナルシシズムを充たすしかないところから社会的に「推し」を提供してもらえるところまで進歩してきた。要するに進化の途中なのだ。この流れには必ず先がある。そう信じたい。

 

本書には「推し」を見つけて社会生活を豊かにする提言が書かれていた。そこを掘り下げるのは後にして、別のアプローチから展望を語ってみよう。未来において「推し」はプロデュースを受けたり企業のバックアップを前提とした素晴らしい存在だけがなれるものではなくなり、普通の人も「推し」になれるチャンスが高まる。要するに本書とは真逆の展開だ。「推し」そのものが増える為、私たちはナルシシズムを充たす存在を探すために苦労もしなくなるし、際限の無い欲望レースに巻き込まれる心配もなくなる。

この考え方は「推し」が生まれた背景をルーツとしている。遡って考えてみよう。元々ナルシシズムを充たしていたのは個人の活動とアマチュアの動画投稿者のような、何でもない他者から得られる「理想化自己対象」「鏡映自己対象」の体験だった。もう少し遡ってみればAKB48について使われていた「推しメン」に辿り着くが、重要なのはどちらも物質的な幸福を前提としていないことだ。私たちはTwitterを通じて個人的に活動したりニコニコ動画のコンテンツを視聴することによって「何かを作ろう」と考えていたが「社会的に成功しよう」とは思っていなかった。AKB48のファン層に関しては寡聞にして存じ上げないのだが、その中にいた人は「たかみなを推して社会的に成り上がろう」とは思っていなかったはずだ。そこが最も重要な点である。「推し」の原点は精神的な繋がりを重視するものだ。東京ドーム単独公演とか登録者100万人とかはあくまでも付随した目標である。実際にニコ動でゲーム実況者を応援していた時も彼らが「ユーザーレベル*7」に拘っている様子は見られなかった。実際には再生数を理由とした悩みや葛藤は際限無くあったはずだが、それよりも自己実現を軸に据えている人が多かった。

 

その精神は現代の「推し」にも受け継がれている。私はここ数年間でキャラクターや声優、Vtuberの方々を複数応援してきたが、誰一人「登録者数」とか「アリーナライブ」を最大のモチベーションとして活動してはいなかった。言葉では物足りないので例を挙げてみよう。声優アーティストの楠木ともりは活動の軸を「誰かの居場所になり、背中合わせの存在として自分を感じてもらうこと」に据えている。歌手のAimerは「進む道が分からなくなった時に寄り添えるよう、貴方に歌を届けたい」と日々努力を続けている。ロックバンドのtacicaは「私たちは自分の作りたい曲を作っていくので、貴方もライブに来たいと思ったら足を運んでください」というスタンスを取っている*8*9

注目したいのは誰も社会的な成功、物質的な幸福を目指していないことだ。いや、彼等彼女等にも栄光や権力に対する渇望はあるだろう。そうでなければ活動のモチベーションを保てないし、承認欲求を脱ぎ捨てて制作を続ける「楽曲ロボ」には魅力を感じない。しかし物質的な幸福を目指すと「推し」の理解を取り違える。間違いないのは私たちが「推し」の人間性や精神的強度を高め続ける姿勢に「憧れ」を抱いていることだ*10。要するに私たちは「推し」のようになりたいのだ。実際にはなれないので自分の代わりに夢を叶えてくれる「推し」を見つけ、それぞれ応援している。

と言っても、私たちは未だ物質的な幸せにしがみついている。古くから「おたく」の必需品だったフィギュアはいつしかアクリルスタンドに置き換わったが、部屋をモノで一杯にして心を充たす流れは今も変わっていない。しかし「推し」を中心とした承認欲求が様々な苦悩と葛藤を巻き起こしながらも、私たちの中に「推しのようになりたい」という欲求はまだ根付いている。それがある限り私たちはきっと「推し」のようになっていく。これは確信だ。『魔法少女リリカルなのは』の時代には「聖人」「夢物語」でしかなかった高町なのはの優しさ*11を、今日では多くの人が持っている。彼女のように振舞えなくても心情を理解することは出来るはずだ。それが進歩であり、多くの創作物との交流を通じて私たちは「推し」のような存在に近づいていく。いや今も近づいている。そうである限り大丈夫なはずだ。

 

本書の三章まではコフートマズローを参照した学びの多い内容だったのだが、四章以降は物質的な幸福(に関する記述)が中心となってしまった。それが少し残念だ。身近な「推し」を見つける、挨拶やTPOに対する配慮を欠かさない、良いことだ。しかしそれでは根本的な解決にならない。社会に”適応できるかもしれない”パーツが増えるだけだ。前提が「この社会で生きて行くための方法」なので日本社会にしか適用できない理論なのは無視するとしても、「小さなナルシシズムの充足」を吹き飛ばすような圧力に対する記述がないのは気になる。(繰り返すが)四章以降に書かれているアドバイスはどれも「良い事」である。しかし職場がパワハラ/モラハラの蔓延る劣悪な状況だったらどうか。家庭環境が最悪だったらどうか。2023年度に既存社会の歪みを露呈させた「ジャニーズ/宝塚/ビッグモーター/トヨタダイハツ事件」のような圧倒的な闇に直面した時、個人レベルで取りうる対策はあるのか。無い。その事実から目を逸らしている限り有効打は出て来ない。アドバイスを全て(自然に)実践しておきながら、巡り合わせの悪さで退場していった敗者は多くいるだろう。四章以降の内容は著者の生存バイアスが含まれすぎている。多くのTipsを実践して成功したとしても、結局のところ「破滅をもたらすような既存社会の闇」が偶然周囲に存在しなかっただけだ*12。それでは弱すぎる*13。とは言え四章以降のアドバイスも実践してみて「しっくりくる」「いい感じ」だったら続けてみる価値はあるだろう。そこを切り捨てる必要はない*14

 

(話を戻して)再び原点に返ると、私たちは社会に佇む「物質的な幸福」に嫌気が差して自らの望む幸福を探し始めた。そこで作り上げていた価値は社会的に認められるようになり私たちの手を離れることになった。それ自体は進歩だ。まあ社会の好きなように「推し」という概念が使われることはかなりの痛みを伴うのだが、それでも「推し」として活動している人が増えれば、精神的な繋がりを重視する(それ自体は何か役に立つわけでない)価値観を肯定する人は増える。その上で他者に貢献しようとする「推し」に憧れる人も増える。それが最も重要だ。「推し」を中心として巻き起こっているのは探し求めていた幸福が浸透していく過程だ。それらが完了した時、私たちは今までと違う次元の社会を作り上げることが出来るだろう。

私がその社会を見られるかどうかは分からない。見られたとして一定の社会的地位に就けているのかも分からない。そんなことは知らない。重要なのは命の灯火が消えるまでに何が出来るか、それだけだ。今後も「憧れた世界」を出来る限り多くの人に享受してもらえるよう行動し続けようと考えている。

 

最後に

本稿で題材とさせていただいた書籍を紹介します。読み進めて行く中で思いがけない気付きもあり、多くの発見と学びを得ることが出来ました。マズローコフートを中心とした精神医学の分野から「推し」を読み解く、地に足の着いた一冊となっています。「推し」のことが大好きな方も、未だ「推し」が見つけられていない方も是非手に取ってみてはいかがでしょうか。

Amazon.co.jp: 「推し」で心はみたされる?~21世紀の心理的充足のトレンド eBook : 熊代亨: 本

 

少し前から自身の経験と主観を元にした「推し」理論を構築したいと考えていましたが、余りに二次元コンテンツと自身のSNSを通じた活動の距離が近すぎたため「自分語り」になってしまう可能性があり、何か「緩衝材」に値するものが無ければ文章を書くのは困難だと感じているところに本書が出版されたため、喜んで手に取らせていただきました。文章内では本書に対する(批判にあたる)率直な意見を記しましたが、シロクマ氏の尽力により書籍が出版されていなければ「推し」に関する考察を纏めることも出来ませんでした。貴重な機会を与えてくださった著者のシロクマ氏並びに出版社の大和書房さんに感謝致します。今後も御自身の野心を達成するために活動を続けて行ってください。応援しています。

*1:トキワの森』のピカチュウくらいだと思ってもらいたい

*2:実際にはその前に小規模な匿名掲示板を使っていた

*3:2012年4月28日開催

*4:経営赤字とかも響いていたらしい

*5:今もニコ動を愛している人にはのっぴきならない問題だと理解している

*6:決して楽園ではなくそれはそれで窮屈さもあった

*7:フォロワーが増えると少しずつレベルが上がっていく。一目で人気度が分かるため影響力を持っていたが、実際のところ大して価値のあるシステムでもなかった

*8:にじさんじ所属のVtuberである星川サラは「推して後悔させない」を掲げて活動している

*9:才能と承認欲求に真正面から向き合いつつ求めているものを探す物語として、アプリゲーム『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat.初音ミク』のイベントストーリー「満たされないペイルカラー」を挙げておく

*10:「理想化自己対象」

*11:実際には放送当時を知らないので憶測

*12:運も実力の内であり、既存社会における勝者を毀損する意図はない。しかし彼らの成功には再現性が無く足場が不安定なのも事実だ

*13:「最低限『自爆』はしないようにしましょうね」というお話しだったのかなと考えている

*14:日本は平和な国であり経済基盤や社会システムが激変する可能性は低い。その為「挨拶やTPOに即したファッションを心掛けましょう」という提言をそのまま流している。しかし時間をかけて『社会規範を言われたままに取り入れる人間は要らない』『周りの顔色を伺うヤツは使えない』と価値観が変容する可能性はあり、その際に本書のアドバイスを取り入れた弊害が出る場合もある。だから「良いこと」としつつも「取り入れた方がよい」とは書かない。全ては選択であり、その責任は当事者以外に取ることが出来ない。実践は各自に任せたい