とら目線

創作と向き合う

天気の子 感想

 

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©️『天気の子』製作委員会

 

君の名は。』でメガヒットを記録し、巨大なバックボーンとそれ故の縛りを受け持った新海誠監督。最早前作の風評から切り離されることは叶わず、社会からも夏のエンタメ作品を期待されている。そんな中で彼が送り出してきたのは、東京の「今」を鋭い視点で切り取り、現状に対する強い危機感を滲ませながらも、ボーイ・ミーツ・ガールの型を外さない『天気の子』であった―

 

というわけで『天気の子』感想です。

見る前はどうせエンタメラブラブストーリーでしょ〜とタカをくくっていたのでブログなんかより終わった後の昼飯を考える方が重要でしたが、114分間に込められた監督の「伝えたい」「伝わってくれ」という強い想いを感じ取り、上映終了時には感想を書き起こすことを決めていました。7/19(初日)に見たので前日までの曇り空が一転、快晴の東京という天気の祝福をこの目で見ることができたのも感動しましたね。

 

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川崎で見た直後居ても立っても居られず、途中下車して撮った秋葉原の空。『天気の子』で映るのは逆(UDX階段側)なんだよなぁ…

 

公開から3週以上経過したため既に見た方も多いと思いますが、この先はネタバレを含みます。ご注意ください。


実のところ、公開前から「バイトル」や「カップヌードル」とコラボcmが放送される節操のなさに「あーあー、新海クン、色気付いちゃったねぇ。」と思っていたので、その資本を真っ向から裏切る形になっていたのは大変驚きましたね。帆高ファミリーが法律(秩序)を突破するに止まらず、最終的に自分たちの意思で東京(文明)を海に沈めたことからも分かるように、この作品は明らかに現代社会に対する否定的な要素を含んでいます。その凶暴な作品世界に没入出来た人間(🙋‍♂️)もいるとはいえ、山手線レール上を爆走し須賀に拳銃ぶっ放す帆高を見た後、どの程度の方が物語に付いてこられたのかには興味があります。説明不足の展開の中に制作側の主張を叩きつけ、共感出来ない客を置き去りにする程の熱量、又は自己満足を生み出す作品なので、消化不良の方の助けにもなるような文章を目指そうと思います。

 

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©️『天気の子』製作委員会

美麗に東京を切り取る新海誠の本領。なお沈む模様。悪趣味ですね〜

 

1-1.帆高を受容しない世界

本文章は「何故帆高は世界を救わなかったのか?」「救ってはいけなかったのか?」を解明することを目的にしています。その為に、まずはこの映画で帆高が都会に受けた仕打ちを整理しなければなりません。大まかな場面分けとしては3つ。


① 帆高が東京に上陸した直後

・ネカフェに泊まり込み仕事を探すものの、身分証がないため相手にされない

・ネカフェの店員には露骨に嫌な顔で対応され、野宿に切り替えた後はスカウトマンの嫌がらせに遭い、都会の冷たさに打ちのめされる

・3日間の夕食をマクドナルドのコーンポタージュで凌ぐ


② VSスカウトマン

陽菜を助け出そうとしてボコボコにされる。銃をぶっ放したことが警察から追われる原因となる。

 

③ 3人の逃避行

警察官にお尋ね者として追いかけ回された翌日、社会が陽菜を見捨てたことに気付き絶望する。逮捕後は頭のおかしな奴として扱われる。


このように、帆高は徹底して「大人の世界」から弾き出された上、帆高の要求が叶わないことを悟り、陽菜の犠牲を全く顧みない東京を水に沈めることになります。

ここから、「大人の世界」の問題点を解き明かせば帆高が暴走した理由を知ることが出来ます。

 

1-2.大人たち
では、「大人の世界」について細かく見ていくことにしましょう。主に3層構造になっています。


①『権力』の所持者。作品内で言えば、最も高い地位を持つ警察官。権力維持の象徴として描かれているため、かなりの悪者として登場している。


②スカウトマンやネカフェ店員のように『金銭』を目的とした労働者層。本当はこの上に彼らを使役する上層部がいるが、本編には登場しない。作中帆高に直接的な悪意を向けてくる⇔『権力』には無力。


③競争の中にいるが、社会の中心にいない非労働者。作中の人物では就職中の夏美


このようになります。「大人の世界」の大部分は②に属しており、彼らと他の人を繋ぐものは『金銭』。見知らぬ多くの人たちと出会う東京において、人々は「信用」をお金(モノ)に代えて取引しているため、相手の内実を知る必要がありません。特に都会ではクレームを受けないことや効率よく客を捌くことが大切であり、そのために人以外のシステムも最大化されています。具体的には、セルフレジや返却口、マニュアル化された対応など。都会の労働者は基本的に一定のリズムを守らなければならないため、客側にも同じく淡々と対応することが求められます。。帆高のようにそれを乱す場合、迫害されたり冷淡に扱われる対象になります。


他に当作品で登場する取引簡略化アイテムには『学生証』があり、個人の経歴を一目で特定出来るような工夫が凝らされています。しかし、これも「信用」の肩代わりでしかないため、打ち解けるとか心を許すなどの目的で使われることはありません。極端なことを言えば、『身分証明書』と『金銭』さえあれば人の中身はなんだっていいというのが都会の態度です。定式化・効率化を最優先にしており、不明確なものを排除していく傾向にある都会において、人の心や精神といった不明確なものを理解してもらうのは大変難しい。これは必然的なものです。


更には貧困層の弱みにつけこむスカウトマンのように、『金』さえ手に入れば相手のことなんてどうだっていいというビジネスも発展し始める。圭介は出版社の利益のために仕事を切られ、就職を目指す夏美も自身の利益を獲得するため「第一志望」という嘘を吐き続ける。誰かの心配をする必要がない社会で、企業や個人は自己利益や欲望だけを叶えるために行動するようになる。場合によっては他人を利用することも厭わない。これも必然の流れです。

しかし、「子どもたち」はそういうものは求めない。ここに第一の問題点があります。

 

 問題点の整理 その1

子どもの要求と、金銭や自己利益を目的として動く社会が合わない

 

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©️『天気の子』製作委員会

ありとあらゆる場面で理不尽な目に遭う主人公兼狂人。名前のせいで序盤は山賊の顔がチラついて仕方がありませんでした。

 

2.子どもたち

次に「子どもたち」の要求を確認します。帆高の場合K&Iの月給3千円を受け入れ、住み込みで働いていました。彼が切望していたのは「居場所」です。額面が安かろうが、仕事で怒られようが、家庭的な暖かささえあれば暮らしていけた。安息出来る居場所というのは、帆高が「森嶋帆高」として認識されていなければありえないこと(RADWINPSの言葉を借りれば「愛」)であり、都会では非常に獲得が難しいものです。結局、このユートピアも夏美の就活や圭介の縁切りによって潰えてしまうことになります,

@圭介が手切れ金を渡す際、彼は帆高の名前を一度も口にしません。圭介は帆高を無名の「少年A」に戻し、これによって無関心を装おうとします。


一方、陽菜は晴れ女の仕事によって「繋がり」を獲得して行きます。こちらは『金』を動機として仕事を始めますが、陽菜に報酬金3040円の過不足を問う気はありません。彼女は『金』よりも自身の役割や生きる意味を深く求めているため、依頼人の‘‘思い’’を受け取り、その達成に貢献することを最も重要視しています。仕事を終えた時点で既に依頼人の心と自身の心に結びつきを得ているので、金額の超過や不足で関係や態度が変化することはないのです。

当然ながら、晴れ女のように特定の‘‘誰か’’に対して自分の力を使い幸福を届ける仕事は、都会が一般的に求める能力の発揮とは違うものになります。

@社会が一般的に求める能力=名前のない「大衆」や「顧客」に対してサービスを行えるか、裏方的にそのサービスを企画する能力。コミュニケーションもあくまで営利として求められる


中盤に自分たちの願いを叶えかけた二人ですが、後半は「居場所」さえあれば良かった帆高と、自身の「価値」も晴れ女に預けてしまった陽菜で明暗が分かれてきます。帆高は単に縁を切られるだけで済みますが、陽菜は天気の巫女として生贄になるところまで行ってしまう。「大人」として認められるには、「僕たちは君にサービスを与えたんだから、何かお返ししてくれるんだよね?」という社会の要求に応え、相応の『能力』を発揮する必要があります。しかも、この『能力』は社会にとって有用なものに限定されています。つまり、折角何らかの才能があっても、社会的に有用でない場合は使うことが出来ません。更に厄介なことに、社会は『存在』それ自体を肯定しないので、この『能力』による奉仕の要求は脅迫めいたものになります。(1)そのため、「大人になりたい」陽菜は自身の『存在』自体に価値を感じられず、『能力』によって「大人」の仲間入りを果たそうとします。

(1) 社会は人の中身や精神を必要としない、寧ろ排除すると書いた通り、少なくとも存在それ自体は価値のないものです。晴れ女でない陽菜は社会にとって「少女A」でしかないのです。


ところが、自分の生きる意味を見出すために『能力』を使うというのは本来歪なものです。月並みな言説ですが、人間は誰もが生きる権利を持った平等な存在のはず。それなのに『能力』の中でしか「繋がり」を得ることや自身の価値を見出すことが出来ないと、『能力』が無い/失う=自己価値の喪失になるため、陽菜のような弱者は限界を超えてすり潰されてしまう。更に殆どの人間は私欲を満たすために行動しているため、一度潰れた人間を省みるようなことはしない。陽菜が体良く社会に利用され、最終的に見捨てられる構図もまた必然に浮き上がってくるものです。これが「大人の世界」、二つ目の問題点になります。

 

問題点の整理 その2

・子どもは「心から」人と繋がることを求める⇔大人は人に無関心でいるよう努める

・自身に価値を感じるためには、都会の要求する『能力』を発揮せねばならないが、消費された後は呆気なく捨てられる

 

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©️『天気の子』製作委員会

ヒロイン。かわe

最序盤はもしかして棒…?と思いましたけど、陽菜ちゃんも夏美さんもしっかりハマってましたね。

 

3.権力者たち

では、治安維持に務める警察官はどうなのか?

彼らは元々正義感が強い人間であり、本来弱者を見捨てるような人々ではありません。ですが最初に書いたように、警察官はこの世界を維持している人たちです。『正義』はある一つの秩序を肯定しなければ成り立つことはありません。彼らは当の秩序が陽菜のような弱者や心無い人々を生み出し続けているにも関わらず、無批判にこれを受け入れ、我々を狂った世界に縛り付ける虚偽の良心なのです。『統制』を行う権力者の存在によって、「勇気」や「希望」、「絆」といった不明確な要素が復古する可能性は摘み取られ、「愛」は狂気と化し、また同じように弱者は搾取される。そのために、新海誠は本当の弱者を助ける存在として彼らを描かない。小さな正義に陶酔し、大いなる間違いに気がつかない大バカもの…彼らはそういう立ち位置なのだと思います。(警官の解釈については、余談でもう少し語りたいと思います。)

 

問題点まとめ その3

 

「二重の排除」

 

子どものような『能力』がない弱者は『存在』を肯定されない。

『能力』がない弱者は、数少ない資源(例:水商売=身体)を使って自身を消費し、何とか「繋がり」を得ようとする。

資源が消費され尽くすと、一時的に振り向いていた人々は弱者に「利益」を感じなくなるので、当然に見捨てる。=社会からの排除

法秩序は、①(根本原因)の現状を見て見ぬ振りし、そのために発生する諸問題(②-③-自殺等)からも目を逸らし、疲弊しきった弱者に正義を振りかざす=権利からの排除

 

4.暴力について
ここまで、帆高の暴走は「大人の世界」が子どもたちの要求に応えないどころか、陽菜に「大人」になることを要求し、天空に連れ去られるまで消費し尽くしたことに関係があると説明してきました。これに加えてもう一つ、「上から下へ」流れているものが分かるでしょうか?それは暴力です。帆高は親に、警察に、スカウトマンに殴られ、地面に叩きつけられる。圭介は「親権」に太刀打ち出来ず、夏美は「一個人」として「企業」の前に立ち竦む。権力や強さを利用した暴力は、凡ゆる「思い」を超えて弱者を統制、強制することができます。それはコミュニケーションによる解決を拒否するという意思表示。「繋がり」というワードとは対極にあると言ってもいい。暴力は帆高と圭介の対峙でも使われており、圭介は帆高の唯一の理解者…つまり「親」になってあげられる立場でしたが、結局は帆高の父親と同じく暴力の下に彼を従わせようとしてしまったため、帆高と世界が手を取り合う最後の希望も閉ざされてしまいます。


作中では象徴的に描かれている暴力ですが、現実には我々を「大人」に引きずり込もうとする、「半暴力」とでも言うべき力が常に作用しています。子どもとして生まれ落ちた僕たちは当然この世界を肯定するものとして扱われ、「あれ、ちょっと違うんじゃないかなぁ」と思っても、「いやいや、そんなことないよ。それは君が子どもだからさ。いずれ分かるようになるよ」とあしらわれる。そして帆高のように「やっぱりおかしいじゃないか。そんなにこの世界が幸福に出来ているなら、何故陽菜さんは貧困状態で、世界に殺されなきゃ行けなかったんだ?」と主張すると、「なに!君はこの世界が嫌なのか。それなら出て行け!」という大変暴力的な態度が露わになる。殆どの土地が国家や人々に「所有」されている現代において、逃避先を見つけるのはほぼ不可能であることも、この事に拍車をかけていますね。

@実際社会に意思はないので比喩的な表現ですが、「特定の犯人や悪の執行者が見つけられない」→「全体の意思」となります。

 

例としては自己責任論があり、これはまさに「社会が悪いか/個人が悪いか」に問題を二分し、責任を個人に帰属させることで問題を顕在化させないという「暴力的機能」を有しています。断言しますが、ある一定の困窮状態に陥った人々には何かしら自己責任に帰せるものが見つかります。それを一つでも見つけた時、人は「自己責任が生じた背景」や「貧困に至るその他諸々の条件」を忘れ、貧困当事者…顕在化した被害者だけを裁こうとします。そうすれば、外の不備は「見えなくなる」ので、一見問題が解決したように見えてしまう。社会は‘‘危機’’を脱出し、被害者だけが増えていく…ということになります。

条件の例としては、いじめ、貧困、差別、不当解雇、社会保障の不備などです。


ここには、‘‘違和感’’を個人の気の迷いに落とし込むことで責任逃れする社会の実態や、社会が僕たちに『能力』を求めるのに対して、僕たちは社会を無条件に愛さなければならないという矛盾が含まれている。

そもそも僕たちは、殆どが生まれた時から同じ社会体制の中で生きています。社会に軋みが起きれば問題を解決しようと試み、より良くしようとするのが健全な形であるはずです。しかし、「大人になれ」という言葉は、それ一つで問題を破壊してしまう。犠牲者を乗せたまま歯車を回し続けようとする。その中で声を上げずに「大人」と同化しようとしたところで、辿り着く末路は天上に連れていかれた陽菜か、地上でくたびれる圭介の二択でしかない。それを見た帆高は徹底的に反抗し、都会を破壊へと導く。社会の声を受け入れても死者は帰ってこない。「大人」と握手することは即ち現状の肯定であり、陽菜という‘‘愛’’を育んだ人との永遠の別れを意味する。僕たち(個人)と社会(経済)は最早和解の余地が無いほど断絶してしまっており、秩序自体を破壊しなければ都会の前進を止めることはできない。それでも、帆高は世界(経済)を選ばない。帆高が陽菜を求める‘‘愛’’ゆえに、現状を肯定するという選択肢は絶対に浮かび上がってこない。帆高が真っ直ぐな意志を貫いたことで、無機質な東京は雨の中に沈んでいく…

 

帆高が世界を救わなかった理由

①都会は子どもたちの要求には答えない。それどころか、『能力』を提供しろと呼びかけてくる。

②『能力』を提供しても、体良く使い捨てられる。異議を唱えれば「大人」という暴力的な圧力を用いて問題を隠蔽し、被害者を包み込んだまま前進し続ける

③陽菜さんを救おうとしないなら、その世界を肯定するような世界なら、俺は天気よりも陽菜がいい

 

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©️『天気の子』製作委員会

大人代表。めっちゃかっこ悪いやつ。でもすき

 

5.まとめ
帆高が世界を救わなかった理由を一つ一つ解き明かしてきました。「大人」との断絶が確定した帆高は圭介に銃口を向け、ただ陽菜に会いたいという「思いの実現」を目指す。暴力はあらゆる権利を超えて強者に対抗できる手段でもあります。だから圭介を突破するために使うのは銃しかあり得ない。ここでやっと圭介が奮起し、ただ帆高を守るという‘‘愛’’だけを持って警官を殴り飛ばし、帆高の銃声によって開幕した「下克上」を完成させる。そうして‘‘愛’’は勝者になり、主人公は多数の被害者を出す大災害を引き起こすことになる…

 

2人が再会するために世界を犠牲にしたことの必然性は、ここまで書いてきた通りです。自分としては帆高が法律を突破し、多数の人に迷惑をかけたからこの作品は受け入れられないという人に、「そうじゃない、本当に身勝手なのはこっち(帆高)じゃないんだよ」と伝えられたら嬉しいかなと思います。都会は「ネコ」(圭介→帆高→アメ 夏美→陽菜→帆高)を救おうとはしない。そういうことは社会にとって効率的ではないから切り捨ててしまえばいい。警察のような「統治者」は今の現状を肯定していることが前提なので、根本的な困難を解決する気はない。そんなのは違うだろうと。本来法律は僕たちを守るためにあり、社会は人を幸福にするものでなければならないはず。それなのに、作中の権力や社会は「現状維持ゲーム」にしか使われていない。みんな市場の体現者の顔をして、帆高の声より社会の適切な運営を選んだ。それでも帆高は、天気の巫女として生贄にされた陽菜と、散々都会に殴り倒される自分自身と、それを気にも留めず日常を送る人々を見てしまった。‘‘声’’を上げなければならないのに、個人の力はあまりに弱く、即座に鎮圧されてしまう。その間にも死者が生み出され続ける…このような世界はやはり正しくないのでしょう。社会が現状を正しく認識し、解決策を提案していれば、そもそも闇を閉じ込める「蓋」は存在していないはずなのです。帆高のような最も弱い立場ではなく、新海誠という「勝者」の視点からでさえ、「現状維持」を選び続けているはずの現代社会が、実は緩やかな「滅び」へ向かっていることを発見してしまった。だからこそ今回のような物語が描かれたはずなのです。本当に全てがこのままでいいのだろうか。もしかしたら我々の社会の動かし方はちょっと間違っているのかもしれない。少しくらいは、改善の余地があるのかもしれない。そういう風に考えてくれると、帆高をスマホカメラで撮影していた‘‘傍観者’’から、一気に社会を作る一員としての‘‘当事者’’に引き込むことができる。というより、なってほしい。新海誠はそういうことを願ったのではないかと思います。

 

また、この文章では出来るだけ社会の不備を指摘しましたが、帆高を善人として扱うことはやはり正しくないのかもしれません。実際、自分も彼の行動全てを肯定するわけにはいかない。「帆高のせいでどれだけの人に影響が出たと思っているんだ。直接的な人的被害、故郷を失う精神的苦痛、政治体制とインフラの崩壊!こんな行為を許していいはずがない!」という正義感は当然持っているべきものですし、健全な感性であると思います。

帆高の行動をどうしても受け入れられないのであれば、陽菜側に焦点を当てて考えてみてください。自身の置かれた状況を「そんなもんだよ」と受け入れさせられ、「ホラ、君の生きる道はこっちだよ、頑張って」と水商売に足を踏み込まざるを得なくなる。最終的に‘‘死’’を経験する結果となった背景には、「大人の世界」に多大な負荷をかけられながら、それを肯定し飛び込むしかなかった弱い彼女の姿がある。

帆高に心から共感出来ない健全な感性を、陽菜という「権威に虐げられ続け、たった1人で全てを背負うしかなかった」被害者に寄り添う形で発揮すること。僕はそれだけでも大きい前進になるのではないかと考えています。そして、『天気の子』がそのような感覚を育むことを願っています。

 

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©️『天気の子』製作委員会

かわe(2回目)

ラストシーンからのタイトルロゴがドーンめっちゃいいですよね

 

ここから余談です。まずは瀧くんと三葉について。

立花家は「繋がり」を体現する家として相応しい場になっています。前作で田舎の酸いも甘いも経験し、「結び」という繋がりを得た瀧くんと、(恐らく)既に年金生活であり、社会の中心から切り離された瀧くんのお婆ちゃん。街も都心から離れ、未だ立花家に宗教的行事-それはつまり、「霊魂」との繋がり-が残っていることも伺えます。過去のムラ的な社会は、現在身の回りに見える繋がりだけではなく、過去の人々との繋がりまで射程に入れていた。立花家のシーンは、全体的に昔ながらの日本への懐古のようなものが見えます。また、今回は殆ど田舎街に対するネガティブな情報がありませんが、その辺り、「お前らどうせ前作見てるよな?」という信頼感のようなものを感じていいですよね。前作で束縛だらけのクソ田舎はしっかり表現されていますし、何しろ250億の大ヒット作品ですからね。


次は三葉について。今作の東京は水に沈んでしまうため、『君の名は。』のキャラ、しかも東京に憧れを抱いていた彼女を出してほしくなかったという声もあるかもしれません。しかし三葉はこの作品の中でほぼ唯一、都心での労働に従事しながら、「繋がり」を失っていないキャラなのです。前作の彼女は田舎の風習や家族の問題に振り回され他人のことまで考える余裕がない女の子だっただけに、「少年A」でしかない帆高に寄り添い、何でもない恋路を応援する場面を任されたことには大きな意味があったと思います。ああ、東京が海に沈んでも、彼女は「大丈夫」だと思わせてくれる強さを感じ取ることが出来るシーンだったと思います。(ところで、『君の名は。』で瀧くんと再会するシーンの時間軸、整合性取れてるんでしょうか…)

 

本編中の警察の立場について。

ネットを見ると「警官は正しいことしかしていない」という意見が多く、確かにその通り(法的には◎)なのですが、僕は正しいこと‘‘だけ’’をしている人間を表現する時に、あれ程主人公を地面に叩きつけるような姿を強調しないと感じています。やはりどこかに、警官を暴力的装置に成り下がらせる間違いがあったのではないかと。ただ、その答えは作品全体に貫通しているテーマであって、警官だけが非難されるべき問題でもないようです。具体的には、「一般市民も警察官も、君たち全員が今の世の中を選んでいるんだよ。」ということ。『天気の子』に政府の役人や警察トップのような典型的な悪人は登場しません。その代わり、‘‘普通’’に生きている人間が何の気なしに悪意を向け、犠牲を見過ごす日常が繰り返し描写されます。そこには、確かに『権力』による統制はあったとしても、それを受け入れて生きている僕たちの姿があります。結局のところ、みんな現状を肯定している。権力は一定の人々の支持と同意によって成り立つという言説もあります。(2)皆でこの社会を作り上げている。警官も気がついていながら見て見ぬ振りするグループの一つでしかなく、少し上の立場にいたというだけだったのではないでしょうか。

 

(2) ハンナ・アーレント 1906-1975

ユダヤ人で、ナチスドイツから迫害された哲学者。詳細は調べてください。

 

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©️『天気の子』製作委員会

凪くん、君のアシストと叫びが一番最高だった

 

陽菜に関して…

①人柱について

これは完全に僕の考えですが、須賀の「1人の犠牲でみんなが助かるなら…」というセリフで‘‘犠牲’’の対象になるのは、陽菜は勿論、彼女と同じように心を踏みにじられ、極限に追い込まれるような「直接的被害」を受けた方々と、もしかしたら今も圭介のような目をして生きている殆ど全ての労働者たちまで含まれているのではないかと思います。全ての人々が少しずつ都会のために身を削っていて、たまたま頭から冷や水ぶっかけられたのが陽菜だった。別に悪いことをしたのでも無く、たまたま貧困に陥っただけという陳腐さが、簡単に底まで滑り落ちる現状の恐ろしさに拍車をかけていますね。

 

また、陽菜は個人的に扱いが難しいキャラです。彼女と児相のコミュニケーションは明らかに陽菜側が拒否的になっていますが、ここが円満な関係であればそもそも貧困状態にならなかった可能性もあります。何故2人の生活を選んだのか全く描写されていないので、「バラバラにされるかもしれない」という恐怖心がどこから出てきたのか推測出来ません。ここは自分も引っかかるところがあります。つまり、‘‘自己責任論’’を突破出来る解釈が作り辛いのです。「まあ、早合点する年頃だしね。」くらいしか思い付きません。(詳しく見ていないのですが、この間テレビで一時保護所が地獄のような場所だったという特集をやっていました。大変な偏見ではありますが、普通に生きている自分のような存在でも、いいイメージを持ち難いところではあります。)

挑戦的な見方をすれば、「陽菜は最初から児相に行っておけば良かったじゃないか!」と主張した時点で「君は今の社会にどっぷり浸かっているよ」と言うために、敢えて欠陥を残した可能性もあります。何故なら、陽菜は「貧困か、施設か」の二択しか選べない状況にいる。本来なら「貧困も、施設に入る現状も」解決しなければならないのに、この二択を押し付けて満足することは「貧困も、施設に入らなければならない子どもも」肯定するということになります。それでは問題が見えてこない。もっと志を高く持てということかもしれません。多分違いますけど…

 

書き尽くしましたので、これで今回の感想を締めたいと思います。いやー、難産でした。公開初日に見て「新海誠ブログ感想要求了解~!!!」くらいのテンションで書き始めたんですが、「自己満足で書くよりみんなの理解を助けるような文章を書こう!」と変な気を起こし、案の定「頭とケツが繋がってねえじゃねえか!」という流れに…(正確には、全体の構成が繋がらないどころか着地点すら見つからない状況が続いた)

結局、2回目の鑑賞で得たヒントを元に何とか書き上げることができました。「暴力」については下一段の大きなテーマになっていますが、2回目の鑑賞以降に追加した要素なので、ちゃんと文脈が繋がっているか心配ですね…最初は直近の出来事と絡めて書こうかと思いましたが、リアルを挟むと‘‘責め’’が生まれてしまうのでやめました。それに頼らず十分な文量を確保出来て良かったです。

 


というわけで、読んで下さった皆様ありがとうございました。また更新する時はよろしくお願いします。