とら目線

創作と向き合う

中指立ててけ! ---『ガールズバンドクライ』1+2話感想---

春アニメは強豪揃いだ。どの作品も設定がよく練られていて面白い。その中でも『ガールズバンドクライ*1』は少ない話数で大きなインパクトを残してくれた。

 

仁菜との共鳴を感じた私 ---高校時代---

なぜガルクラが強い印象を残したかと言えば、仁菜の境遇が私と似ていたからだ。いじめ等は無かったものの、人間関係のいざこざで居場所を無くした私は全日制高校を中退し通信制高校に転学した。二学期が始まった少し後、まだ本格的な寒さが到来する前のことだ。高校一年生の十六歳、私は全てを失った*2

通信制高校では大した授業をやらないので塾に通い受験勉強を始めた。負けたくなかった。何とか落ちこぼれの烙印から逃れたかったし、居場所を奪っていった相手も見返したかった。そうは言っても一人は辛い。自分が何も出来ないことを知った。這いつくばらなければ生きていけない日々を過ごした。そうした時間を積み重ねて、元居た高校では合格率の低い難関私大に滑り込んだ。スッとしたし「ざまぁみろ」と思ったものの、何処か受験に対して本気になれなかった自分自身を不思議がってもいた*3

大学に入って直ぐに気付いたのは「私の居場所はここじゃない」ということだ。敷かれたレールの上に戻るべきではなかった。既に孤独を味方につけ暗がりに安心感を抱いていた私にとって、雑然とした可能性だけが溢れる空間は毒でしかなかった。

だからだろうか、仁菜がキラキラして見えたのは。

仁菜は逃げるように高校を辞め上京している。何者かになる勇気はなく、"親との約束"である受験勉強を始めるところまでは私と変わらない*4。しかし自分自身と闘っている。桃香と会ったのもバンドを始めるきっかけを得たのも自分の足で川崎まで来たからだ。「せからしかー!」と叫び電灯を振り回す仁菜はパンクロックの精神を持っている。自身に降りかかる現実に立ち向かえる彼女は可愛そうな奴なんかじゃない。

高校時代の私は可愛そうな奴だった。自分のエピソードを話せば何処に行っても同情されたし親身になってもらえた。それが一番嫌だった。優しくされると「可愛そうな奴」である自分が確定してしまうような気がしていた。しかし今振り返ってみればちゃんと「可愛そうな奴」として振舞うべきだった。仁菜を取り巻く環境は高校生にしてはハードだ。上京後も孤独な生活を続けている。しかしボロボロ泣いてみっともなく喚き散らして、子どもみたいに前に進んで行こうとする仁菜は単に可愛そうなだけではない。周囲に気の毒がられ手を差し伸べられるだけのお人形さんでもない。現に(助けてくれる相手にも)迷惑を振りまきながら自身の罪を重ねる仁菜は、心底"人間"として存在している。一方的な役割ではなく相互に循環する関係の中で生きている。それは居場所を用意してもらうのではなく自分自身の手で掴み取ろうとする"人間"の歩みだ。「勉強して大学に入れば居場所が手に入る」と考えていた私は閉じた空間を行き来するロボットになっていた。それが私と仁菜の違いであり、彼女が輝いて見える理由であり、この作品が深く刺さった所以だ。

この身体 根城に よく汗を拭ってる

哀しみという影も形もないモノに 時々 身体の全部を冒されながら 

tacica/ねじろ

現れた新星 ---安和すばる---

『夜行性の生き物3匹』の終盤から登場した安和すばるも親近感を抱いたキャラクターだ。器用ではないがいい奴だ。拒否反応を起こした仁菜のために身を引こうとしているし、しゃぶしゃぶ屋でも気丈に話を回してくれる。しかし相手を思っているはずの行為が次々と地雷を踏み抜いていく。同じ鍋を突いたことのある桃香が「仁菜は野菜クタクタ派だ」と伝えなきゃいかんだろう……!(モンペ)

すばるが不興を買った理由は既に書いてある。仁菜は確かに人間関係で転げ落ちているが、地の底から這い上がろうと必死にもがいている。彼女は手を差し伸べてほしいのではない、一緒に走ってほしいのだ。すばるの優しさは無意識に上下関係を規定し、仁菜の尊厳を踏みにじってしまう。循環の無い関係性は誇り高いプライドを持つ仁菜にとって耐え難いものだ。無条件に優しさを押し付けられれば当然拒絶する。そういう生き物なのだ。

またすばるが穏健な態度を取るのは争いを避けるためだが、この後に電灯振り回したり本音で桃香と話して理解し合うように*5仁菜は嘘を嫌い本心を大切にするタイプだ*6。その為すばるの優しさは実際のところ保身にしかなっていない。ややこしいのは社会的に"正しい"のがすばるの方であることだ。初対面の相手に明け透けなコミュニケーションを取るべきではない、いや取ってはならない。その常識を守ったからこそ仁菜を傷つけている。

決定的に好きになったのは「めんどくせ~~~!」のシーンだが、仁菜が突然帰ってキョトンとしている辺りですばるに信頼を寄せ始めていた。常識という鎧を纏い、薄っぺらな言葉を並べ立てるのは心の奥底に守りたい"何か"があるからだ。まだ見せていないだけで面白い部分を持っている子だと確信できた。実際のすばるはゲラゲラ笑いながら人に指差す最低の女である。"同類"と分かった時点で遠慮が無くなる変わり身の早さは、普段(興味もない)誰かの為にマナーを守り空気を読み、人知れず傷ついている証だ。不器用でもいい奴なのだ。そんなキャラクターを嫌いになれるだろうか。

選べる程 手段はないのに

悩み抜いた様な服を着て

その卑怯になった眼差しを

見損なえたなら 針を持て 

tacica/馬鹿

『夜行性の生き物3匹』はそれぞれの事情で昼(光)の時間帯に心を擦り減らし、夜な夜な闇に紛れて涙を流す三人の邂逅を示している。熊本と旭川では決して出会えなかった二人が運命の如く惹き寄せられる『東京ワッショイ』に続いて秀逸なサブタイだ。細かいところで作品の地力を発揮しているのを見ると、今後の展開にも期待が高まる*7

 

中指立ててけ!

胸に突き刺さるキーワードを引っ提げて始まった本作だが、東映アニメーションが制作し著名なスタッフを揃えている中で何処までパンクロックの精神を描けるだろうか。HP公開から一年足らずで7th singleの発売に漕ぎ付けている中々大きいプロジェクトでもあるようだし、中弛みした展開になってほしくないところ。うん、夢がないことを書いた。大きく育てガルクラ、川崎はいいところだぞ。

振り向いたら さっきまでの未来図が幻になりそうで

ただ我武者羅にやった彼奴の為に

今 歌いたいんだ 

tacica/ホワイトランド

 

youtu.be

girls-band-cry.com

*1:以下ガルクラ

*2:小中の人間関係は高校入学時点でほぼ残っていなかった

*3:合格した大学は中の上くらいの中途半端な立ち位置である

*4:全日制高校に転学するのを拒んだ私に親が出した条件が『受験勉強を怠らないこと』だった

*5:一話から桃香と正面切って話していたように

*6:時には言い争いも辞さない

*7:二話ともロックバンドの楽曲から引用しているらしい。ぼざろやブルリフと同じか

『夜のクラゲは泳げない』1話短評 ---自分探しの問い直し---

暫く物語に触れていなかったが春から目を通すようになった。今回は『夜のクラゲは泳げない』を評する。

 

yorukura-anime.com

 

一話が放送された段階だが、タイトル通り「自分探しを問い直す」作品のようだった。と言っても作品自体に「問い直し」の意味合いはないだろう。純粋に迷い間違えながら進んで行く少女たちの話を熱量かけて描いていくはずだ。

「問い直し」と書いたのは自分探しが何度目かの波を経験してきているからだ。一世代前は『宇宙よりも遠い場所』や『色づく世界の明日から』が放送された2018年前後だろう。この頃の作品が辿り着いた結論はおおよそ「質のいい関係」だった。本気で夢を語り合える仲間若しくは優しく包み込んでくれるような友人。「私」とは独りで成立する存在に非ず。そんなメッセージを残して行った。

しかしこの結論には穴があった。結局のところ「質のいい関係」が得られるかどうかは運という部分だ。そもそも不安定で再現性が低く構築にも時間のかかるのが"関係"だ。そう易々と新しい友人を見つけるためのチャレンジが許されるわけでもない。煌びやかなアニメの世界に対して現実では"関係"を築く難しさやコスパの悪さに絶望した声が見られるようになった。『親ガチャ』という言葉が流行ったのは正にそれだろう。環境が悪ければ自分まで潰れる、半分正解で半分間違いの言葉が浸透したのは「質のいい関係が重要なら、それを与えられなかった私たちはどうすればいいの?」という戸惑いと諦めから来るものだった。

 

さて時期的には「問い直し」の段階に来ている自分探しだが、この作品では「出会っちまった女と女」の"関係"に基づいて物語が進む。「はあ、また"関係"か」と溜め息を吐きたくなるところだが、救いがあるのは"才能"や"努力"なんかも包括的にカバーしているところだろう。まひるはセンスがやや若人離れしているものの絵が上手いし、花音も一度社会に圧し潰されたところから再起を懸けて努力している。アタリをつける(増やす)のは大事だ。一話で提示された要素(関係才能努力)を三つとも持っていない人も一定数いるだろうが、とりあえず一つ持っているだけでも光は差し込む。

まひるは「大衆」としての人生に見切りをつけている。「大衆」にも凡才と秀才がいる。秀才とは要するに出世株、サラリーマンなら社長や取締のような役員になる人だ。まひるはエリートコースに乗れるとは思っていないが、社会に溶け込むくらいなら出来ると考えている。*1。しかし想像する未来は明るくないし、面白くもない。

そこで「自身の才能を使って昇り詰めていこう」と決心するのが一話だった。屋久ユウキ氏は思春期の"群れ"的な自意識を描くタイプだと感じていたので"個"にフォーカスするのは少々意外だった。裏表ともいえる。「みんな一緒、みんな同じ」を掲げるなら、その裏返しは「私は私」だろう。確固たる「私」にアイデンティティを求めるのは十代の精神的な熱にマッチする。

 

宇宙よりも遠い場所』と異なるのは向社会的な部分だ。世界の果てに旅立つ願いを馬鹿にされた分、他人の利益にはならない行為に執着し突き進んでいった報瀬に対して、花音とまひるの願いは「この社会に受け入れられる」「この社会で夢を叶える」という部分で一致している。如何にして社会に受け入れられるような価値を創造するかにフォーカスしている点を見れば、この作品が薄暗い渋谷から始まったのも頷ける。渋谷のネオン街は確かに東京のダークサイドのように見えるが、集まる人たちは「トー横キッズ」と同じく完全に社会から離反しているわけではない。花音もまひるも社会に反目してやろうとは考えていなくて、最初からそこ(東京)でもっと受け入れてもらいたい、受け入れられるような自分になりたいと考えている。その意味では現代社会の若者が目指す方向性を忠実に反映していると言えそうだ。自分探しの内容も無重力の状態から作り上げる「私」を離れて「社会の中の私」とスケールが小さくなっているが、その分だけ着地点を見つけるのは容易になるだろう。『宇宙よりも遠い場所』や『色づく世界の明日から』は自分探しを終えてポンと社会に戻る、成長してから社会に溶け込んでいく内容*2だったが、この作品では自分探しの終着点がそのまま社会適応になるからだ。社会の中で居場所を手に入れた私、それこそが誇れる私。表現してみるとややニヒルだが、現代で「まだ何物でもない私」がアイデンティティを獲得するなら妥当なステップアップになるだろう。最早アウトローを演じる舞台(環境)など何処にも残っていないのだから*3

 

『夜のクラゲは泳げない』の今後を占うなら、ただのサクセスストーリーが展開されるか、迸るような少女たちの交流が描かれる(結果として成功が付いてくる)か、その辺りで違いが出てきそうだ。まひるや花音が精神的に成長したと感じられるような物語が見たいし、その為にグチャグチャの本音を吐き出すようなシーン*4も必要になってくるだろう。正直言って「軽い」ように見えるキャラたちに何処まで深みを出せるだろうか。

動画工房のグリグリ動く画面も合わさって"楽しさ"は十分な『夜とクラゲは泳げない』。匿名活動中なのに思いっきり顔出しで歌うトンチキを連れつつ物語は続く。二話以降も期待。

*1:「まあ一端の会社員にはなれているだろう」と考えるまひるの不遜と傲慢が感じられる場面。この軽薄さがラストシーンのカタルシスに繋がるのも含めて面白い

*2:未来への希望を感じさせつつ、社会に溶け込んでいく様子は見せずに終わる。『放課後のプレアデス』なんかも同じ

*3:宇宙よりも遠い場所』から反転した理由の一つに「ドロップアウトの陳腐化」が挙げられる。当時アウトローは"格好いい存在"だった。自分自身で道を選択し、レールを敷き直し、未来を切り開く自由人。しかし社会の要求が高まり「普通」を保つのが難しくなるにつれて転落は日常と隣り合わせのものとなり、花音のように炎上から落ちこぼれるのも珍しいことではなくなった。ドロップアウトが普遍的なものとなった現在はアウトローを格好いいものと思えない。だとしたら社会の中枢に突っ込んでいくしかない

*4:『BLUE REFLECTION/澪』のように、覚悟を問う為に少女たちの信念や理想を圧し潰し、現実と直面させて揺さぶる展開があれば尚良いだろう

「推し」で心はみたされる? -21世紀の心理的充足のトレンド- を読む

以前から「シロクマの屑籠」を読むことがあり、運営者である「p_shirokuma」氏(以下シロクマ氏)氏の記す文章に共感したり(勝手に)反発したりしながら楽しんでいたのだが、今回「推し」がテーマの書籍を発売したということで、二次元コンテンツにどっぷり浸かっている私なりの見方が出来そうだと思い手に取ってみた。

全体の感想は後回しにして、とりあえず書けるトピックからどんどん触れていく。

 

消えたアルファツイッタラ

私がTwitter(X)を始めたのは2014年頃だ。当時割とありふれた存在だったものにアルファツイッタラーというのがいる。もしかすると聞いたことがない人もいるかもしれない。彼らはいったい何者なのだろうか。

アルファツイッタラーの定義は場所によってまちまちだったが、基本的には「全く社会的な背景を持たず、純粋にSNS内の集団若しくは個人のみで一万人程度のフォロワー数を獲得しているTwitterの利用者」と位置付けられる。つまり俳優であるとかアーティストであるとか、特定の企業に属している偉い人ではなく、単なるSNSの一利用者なのだが、どういうわけか一万人程度のフォロワー(大抵はフォロー数も同等)を得ている人たちだ。断っておくと、彼らは殆どが個人的に優れた業績や特筆すべきスキルを持っているわけでは無く、場合によっては普通の学生であることもあった。しかし一万人のフォロワーというのはただそれだけで圧を放つものがあり、今考えると本当にしょうもないのだが、アルファツイッタラーがとある界隈に属するだけで話題になったり肯定的に迎えられたりした。ただ気質的には一匹狼が多く、数多の界隈で揉め事を起こして結果的にアルファツイッタラーに辿り着いた人もいて、名前を調べると悪評で埋め尽くされていることも多かった。良くも悪くも影響力を持った人たちだったのだ。 

このアルファツイッタラー、私がTwitterを始めた頃は「大体一つの界隈に一人はいる」くらいの出現率*1だったのだが、いつの間にかほとんど見かけることはなくなった。確かにSNSで名を馳せ有名になる一個人というのは今でもいるのだが、昇り詰めると直ぐに社会的な影響力を持つインフルエンサーとなってしまうパターンが多く、当時の「フォロワーが多いわりに何の権威も持っていない個人アカウント」というのは本当に見かけなくなった。一体どんな変化が起きたのだろうか。

 

過疎化するニコニコ動画、投稿者は何処へ

アルファツイッタラー減少の謎を追うために、一度ニコニコ動画(以下ニコ動)へと話題を切り替える。ニコ動は言わずと知れた「文字の流れる動画投稿サイト」で、私が最初に触れた「社会的に交流の持てるインターネット」でもあった*2。2010年後半からサイトに足を運ぶようになっていたと思う。

当時ニコ動には「無駄に高いスキル」を持ち、それを自身が楽しむ、又は周りを楽しませるために発揮している動画投稿者が多く存在していた。彼らは動画投稿という作業を通じて間違いなく社会的な承認を得ていたし、実際にスキルも活動を続ける中でどんどん高まっていっただろう。しかし2024年現在、ニコ動に当時ほどの活気はない。直感的に考えるとおかしい。自身の承認欲求を満たせる場なら他のことを後回しにしても留まりたいと思うはずだからだ。しかしそうならなかった。一体何が起きたのだろうか。

潮目になったのは「第一回 ニコニコ超会議*3」だ。それまでのニコ動は投稿者を起点とした横の繋がりでネットワークが構築されており、運営が介入する余地は殆どなかった。しかしニコ動の注目度が高くなり規模が拡大する中で徐々に運営主導のイベントが開催されるようになり、その目玉として企画されたのがニコニコ超会議だった*4。また同時期からニコ動でのアニメ配信が始まり日々のランキングに公式の作品が食い込んでくるなど、少しずつ「素人の遊び場」としてのニコ動は衰退していった。

詳細は省くが、素人とプロの境界線が切り崩された結果、数多のゲーム実況者やアーティストがニコ動から羽ばたいていった。最も有名なのは「ハチ(米津玄師)」だろう。プロに転身した動画投稿者は三桁で効かないかもしれない。それくらい一般層に対しても彼らの存在は馴染んでいった。

私はこの変化を必然のものと捉えている。端的に言えばニコ動は自身の役割を終えたのだ。生まれてきた意味をきちんと果たし、次世代にバトンを繋いだ。ニコ動自体が衰退しても、そこから羽ばたいた著名人は多数活躍しているのだから問題はない*5

 

さて、アルファツイッタラーに話を戻そう。結局彼らの役割は何だったのか。それは(本書の言い回しを借りると)「透明な集団の中でナルシシズムを満たしてくれる存在」だったと言える。2010年代前半のTwitterは「RT(現リポスト)」を中心とした大規模なSNSに発展していたものの、企業の公式アカウントが積極的に動画を投稿したり、消費者にコンテンツを提供することは殆どなく、単に情報を宣伝するための存在に留まっていた。つまり当時の集団は「面白そう」「ここにいたい」と感じる個人の自由意志に基づいて組織されたもので、どの集団に所属するか、活動内容を何にするかも個々人に委ねられていたのである*6そういった「透明な集団」においてナルシシズムは重要視されず、個々人がどれだけ集団での生活を楽しめるか、自身の活動を充足させられるかに比重が置かれていた。しかし、それだけでは何となく物足りない。集団内でナルシシズムを充たし合う相互承認は出来ても、外部からの影響が全くないのは寂しい。

アルファツイッタラーはそういった寂しさを埋めるために存在した「器」だったのではないだろうか。要するに著名人の代わりだ。ニコ動では「投稿者」と「視聴者」の差が明らかであり、関係性も固定されていた。しかし消費と提供の分断が曖昧だったTwitterではナルシシズムを充たせる「大物」が不在の状況であり、ここに一般の利用者も入り込む余地があった。私たちはアルファツイッタラーの発言に影響を受けたり、彼らと交流したりする(反発も含む)ことで「理想化自己対象」「鏡映自己対象」を体験していたのである。

 

「推し」の台頭と個人の衰退

ここで当時のTwitterやニコ動の存在意義を揺るがす怪物が現れた。「推し」だ。2010年代後半からじわじわと広まり「巣ごもり需要」と共に爆発したこのワードは素人と公式の分断を一気に加速させた。作る側は作る方に、見る側は見る方に。

やや先走ってしまったので一つずつ説明していこう。まずニコ動では動画投稿者(配信者)を通じてナルシシズムを充たしていた。動画投稿者の有名になる様を見て「理想化自己対象」を体験し、配信者にコメントを読んでもらって「鏡映自己対象」を体験する等の方法があった。

次にTwitterでは主に自身の所属する集団内でナルシシズムを充たしていたが、それだけでは自己完結型の欲求充足となってしまうので、時折アルファツイッタラーを使って「理想化自己対象」「鏡映自己対象」を体験することがあった。

どちらもプロではない動画投稿者や単なる一個人からナルシシズムを充たしていたというのが重要だ。Twitterは自身の活動が最も重要視されるものであり、アルファツイッタラーの存在はあくまでも補助的な役割であったことを明記しておくが、どちらにせよアマチュアの交流によって全体の流れが完結していた。

 

それを揺るがしたのが「推し」だ。彼らは企業のバックアップを受けて活動する。自分以外の手も借りながら規模を拡大していく。つまり私たちが自分の力で充たしていたナルシシズムを簡単に提供してもらえるようになった。

結果はどうか? 見ての通りだ。ニコ動を見ている人なら分かるはずだが、当時の動画投稿者というのは月一回投稿があるかないか、ゲーム実況者でも週一回といった様相であった。個人の活動ペースは明らかに企業がバックアップする「推し」に劣る。しかも企業は自分たちの社名において失敗するわけにはいかない。まあ「巣ごもり需要」が発生したころに台頭したVirtual Youtuber(以下Vtuber)は「失敗の歴史」と言ってもいいほど日夜やらかしていたわけだが、それでも投稿ペースが実生活に左右される動画投稿者やメンタルを病んで過去の動画を全て消したりする配信者に比べると活動頻度もモチベーションも安定していた。

これは私たちが意識して充たそうとしていたナルシシズムが社会的に提供されるようになった過程である。ニコ動は下火になりアルファツイッタラーは消えた。それ自体は進化の産物であろう。求めていたものの価値が広く認められ一般に届くようになったのだから。努力は実を結び、私たちは勝った。もうニコ動を使って投稿されるかどうか分からない動画を待つことも、SNSに入り浸って自分を大きく見せる必要もないのである。

 

さて「戦後」の私たちは幸せになっているだろうか。うーーーーーん……どうなんでしょうね? 概ね満足? そりゃ結構。しかし「推し」の広まりに付随して発生した不幸も相当数あったように見える。一番は「推し」が余りに浸透しすぎて概念に振り回されるようになったことだ。「推し」に接する時の振る舞いとかお金の落とし方と言った「常識」が確立した結果、ファンの活動がグルグル巻きの鎖に縛られるようになった。

もう一つデメリットとしてあげられるのは「自分たちでナルシシズムを充たそう」という向きが消失してしまったことだろう。能動性が無くなってしまった。まあ当然の結果だ。どれだけ足掻いても企業の作り上げる完璧な「推し」には勝てない。なら自分自身の可能性を見限ってしまっても無理はないだろう。

 

「推し」の展望と本書に対する批判

ここまでを纏めよう。私たちはSNSや動画サイトを使ってナルシシズムを充たしていたが、それらは企業のバックアップを受けた「推し」に取って代わられた。個人の力で「理想化自己対象」や「鏡映自己対象」を体験する必要はなくなったが、代わりに「正しく推す」ためのルールが蔓延り、承認を巡る集団内の競争も発生するようになった。皆が「推し」からの反応に渇望し始めた結果、私たちは自身が選んだ(アマチュアの)他者や「透明な集団」からもナルシシズムを充たせることを忘れてしまった。今日も「推し」から過剰とも言えるほどの情報が提供されており、それを受動的に享受している…………

現状をポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかは貴方次第だ。私は「間違いなく地獄だが社会の進展としては悪くない」と考えている。「推し」を取り巻く環境は際限の無い欲望レースだ。そこだけ見ると間違いなく地獄である。しかしここまで述べてきた通り、私たちは個人レベルでナルシシズムを充たすしかないところから社会的に「推し」を提供してもらえるところまで進歩してきた。要するに進化の途中なのだ。この流れには必ず先がある。そう信じたい。

 

本書には「推し」を見つけて社会生活を豊かにする提言が書かれていた。そこを掘り下げるのは後にして、別のアプローチから展望を語ってみよう。未来において「推し」はプロデュースを受けたり企業のバックアップを前提とした素晴らしい存在だけがなれるものではなくなり、普通の人も「推し」になれるチャンスが高まる。要するに本書とは真逆の展開だ。「推し」そのものが増える為、私たちはナルシシズムを充たす存在を探すために苦労もしなくなるし、際限の無い欲望レースに巻き込まれる心配もなくなる。

この考え方は「推し」が生まれた背景をルーツとしている。遡って考えてみよう。元々ナルシシズムを充たしていたのは個人の活動とアマチュアの動画投稿者のような、何でもない他者から得られる「理想化自己対象」「鏡映自己対象」の体験だった。もう少し遡ってみればAKB48について使われていた「推しメン」に辿り着くが、重要なのはどちらも物質的な幸福を前提としていないことだ。私たちはTwitterを通じて個人的に活動したりニコニコ動画のコンテンツを視聴することによって「何かを作ろう」と考えていたが「社会的に成功しよう」とは思っていなかった。AKB48のファン層に関しては寡聞にして存じ上げないのだが、その中にいた人は「たかみなを推して社会的に成り上がろう」とは思っていなかったはずだ。そこが最も重要な点である。「推し」の原点は精神的な繋がりを重視するものだ。東京ドーム単独公演とか登録者100万人とかはあくまでも付随した目標である。実際にニコ動でゲーム実況者を応援していた時も彼らが「ユーザーレベル*7」に拘っている様子は見られなかった。実際には再生数を理由とした悩みや葛藤は際限無くあったはずだが、それよりも自己実現を軸に据えている人が多かった。

 

その精神は現代の「推し」にも受け継がれている。私はここ数年間でキャラクターや声優、Vtuberの方々を複数応援してきたが、誰一人「登録者数」とか「アリーナライブ」を最大のモチベーションとして活動してはいなかった。言葉では物足りないので例を挙げてみよう。声優アーティストの楠木ともりは活動の軸を「誰かの居場所になり、背中合わせの存在として自分を感じてもらうこと」に据えている。歌手のAimerは「進む道が分からなくなった時に寄り添えるよう、貴方に歌を届けたい」と日々努力を続けている。ロックバンドのtacicaは「私たちは自分の作りたい曲を作っていくので、貴方もライブに来たいと思ったら足を運んでください」というスタンスを取っている*8*9

注目したいのは誰も社会的な成功、物質的な幸福を目指していないことだ。いや、彼等彼女等にも栄光や権力に対する渇望はあるだろう。そうでなければ活動のモチベーションを保てないし、承認欲求を脱ぎ捨てて制作を続ける「楽曲ロボ」には魅力を感じない。しかし物質的な幸福を目指すと「推し」の理解を取り違える。間違いないのは私たちが「推し」の人間性や精神的強度を高め続ける姿勢に「憧れ」を抱いていることだ*10。要するに私たちは「推し」のようになりたいのだ。実際にはなれないので自分の代わりに夢を叶えてくれる「推し」を見つけ、それぞれ応援している。

と言っても、私たちは未だ物質的な幸せにしがみついている。古くから「おたく」の必需品だったフィギュアはいつしかアクリルスタンドに置き換わったが、部屋をモノで一杯にして心を充たす流れは今も変わっていない。しかし「推し」を中心とした承認欲求が様々な苦悩と葛藤を巻き起こしながらも、私たちの中に「推しのようになりたい」という欲求はまだ根付いている。それがある限り私たちはきっと「推し」のようになっていく。これは確信だ。『魔法少女リリカルなのは』の時代には「聖人」「夢物語」でしかなかった高町なのはの優しさ*11を、今日では多くの人が持っている。彼女のように振舞えなくても心情を理解することは出来るはずだ。それが進歩であり、多くの創作物との交流を通じて私たちは「推し」のような存在に近づいていく。いや今も近づいている。そうである限り大丈夫なはずだ。

 

本書の三章まではコフートマズローを参照した学びの多い内容だったのだが、四章以降は物質的な幸福(に関する記述)が中心となってしまった。それが少し残念だ。身近な「推し」を見つける、挨拶やTPOに対する配慮を欠かさない、良いことだ。しかしそれでは根本的な解決にならない。社会に”適応できるかもしれない”パーツが増えるだけだ。前提が「この社会で生きて行くための方法」なので日本社会にしか適用できない理論なのは無視するとしても、「小さなナルシシズムの充足」を吹き飛ばすような圧力に対する記述がないのは気になる。(繰り返すが)四章以降に書かれているアドバイスはどれも「良い事」である。しかし職場がパワハラ/モラハラの蔓延る劣悪な状況だったらどうか。家庭環境が最悪だったらどうか。2023年度に既存社会の歪みを露呈させた「ジャニーズ/宝塚/ビッグモーター/トヨタダイハツ事件」のような圧倒的な闇に直面した時、個人レベルで取りうる対策はあるのか。無い。その事実から目を逸らしている限り有効打は出て来ない。アドバイスを全て(自然に)実践しておきながら、巡り合わせの悪さで退場していった敗者は多くいるだろう。四章以降の内容は著者の生存バイアスが含まれすぎている。多くのTipsを実践して成功したとしても、結局のところ「破滅をもたらすような既存社会の闇」が偶然周囲に存在しなかっただけだ*12。それでは弱すぎる*13。とは言え四章以降のアドバイスも実践してみて「しっくりくる」「いい感じ」だったら続けてみる価値はあるだろう。そこを切り捨てる必要はない*14

 

(話を戻して)再び原点に返ると、私たちは社会に佇む「物質的な幸福」に嫌気が差して自らの望む幸福を探し始めた。そこで作り上げていた価値は社会的に認められるようになり私たちの手を離れることになった。それ自体は進歩だ。まあ社会の好きなように「推し」という概念が使われることはかなりの痛みを伴うのだが、それでも「推し」として活動している人が増えれば、精神的な繋がりを重視する(それ自体は何か役に立つわけでない)価値観を肯定する人は増える。その上で他者に貢献しようとする「推し」に憧れる人も増える。それが最も重要だ。「推し」を中心として巻き起こっているのは探し求めていた幸福が浸透していく過程だ。それらが完了した時、私たちは今までと違う次元の社会を作り上げることが出来るだろう。

私がその社会を見られるかどうかは分からない。見られたとして一定の社会的地位に就けているのかも分からない。そんなことは知らない。重要なのは命の灯火が消えるまでに何が出来るか、それだけだ。今後も「憧れた世界」を出来る限り多くの人に享受してもらえるよう行動し続けようと考えている。

 

最後に

本稿で題材とさせていただいた書籍を紹介します。読み進めて行く中で思いがけない気付きもあり、多くの発見と学びを得ることが出来ました。マズローコフートを中心とした精神医学の分野から「推し」を読み解く、地に足の着いた一冊となっています。「推し」のことが大好きな方も、未だ「推し」が見つけられていない方も是非手に取ってみてはいかがでしょうか。

Amazon.co.jp: 「推し」で心はみたされる?~21世紀の心理的充足のトレンド eBook : 熊代亨: 本

 

少し前から自身の経験と主観を元にした「推し」理論を構築したいと考えていましたが、余りに二次元コンテンツと自身のSNSを通じた活動の距離が近すぎたため「自分語り」になってしまう可能性があり、何か「緩衝材」に値するものが無ければ文章を書くのは困難だと感じているところに本書が出版されたため、喜んで手に取らせていただきました。文章内では本書に対する(批判にあたる)率直な意見を記しましたが、シロクマ氏の尽力により書籍が出版されていなければ「推し」に関する考察を纏めることも出来ませんでした。貴重な機会を与えてくださった著者のシロクマ氏並びに出版社の大和書房さんに感謝致します。今後も御自身の野心を達成するために活動を続けて行ってください。応援しています。

*1:トキワの森』のピカチュウくらいだと思ってもらいたい

*2:実際にはその前に小規模な匿名掲示板を使っていた

*3:2012年4月28日開催

*4:経営赤字とかも響いていたらしい

*5:今もニコ動を愛している人にはのっぴきならない問題だと理解している

*6:決して楽園ではなくそれはそれで窮屈さもあった

*7:フォロワーが増えると少しずつレベルが上がっていく。一目で人気度が分かるため影響力を持っていたが、実際のところ大して価値のあるシステムでもなかった

*8:にじさんじ所属のVtuberである星川サラは「推して後悔させない」を掲げて活動している

*9:才能と承認欲求に真正面から向き合いつつ求めているものを探す物語として、アプリゲーム『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat.初音ミク』のイベントストーリー「満たされないペイルカラー」を挙げておく

*10:「理想化自己対象」

*11:実際には放送当時を知らないので憶測

*12:運も実力の内であり、既存社会における勝者を毀損する意図はない。しかし彼らの成功には再現性が無く足場が不安定なのも事実だ

*13:「最低限『自爆』はしないようにしましょうね」というお話しだったのかなと考えている

*14:日本は平和な国であり経済基盤や社会システムが激変する可能性は低い。その為「挨拶やTPOに即したファッションを心掛けましょう」という提言をそのまま流している。しかし時間をかけて『社会規範を言われたままに取り入れる人間は要らない』『周りの顔色を伺うヤツは使えない』と価値観が変容する可能性はあり、その際に本書のアドバイスを取り入れた弊害が出る場合もある。だから「良いこと」としつつも「取り入れた方がよい」とは書かない。全ては選択であり、その責任は当事者以外に取ることが出来ない。実践は各自に任せたい

劇場版スタァライト考察メモ

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個人用に書き始めたものが思っていたより形になったので、成果として掲載。

スタァライト視聴歴は3回。過去に書いたnoteはこちら

 

note.com

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本題。

 

ー劇場版レビュースタァライトとはどのような物語だったのか?ー


結論:聖翔音楽学園に集まった99期生たちが、登ってきたスタァライトの塔から降り、それぞれの道へ進んでいくお話

劇場版が始まった時点で、「自分たちは塔を降りなければならない」と気付いていたのはひかりとばななの二名

聖翔での日々は皆を心躍らせ、現状への満足感をもたらしたが、当然ながら永続的な関係というわけではなく、卒業と同時に一人一人が自分の道を歩み出さなければならない

ひかりは未練を断ち切るために聖翔を去り、ばななは『皆殺しのレヴュー』で他の星光館メンバーに現状を伝えた

しかし、この二人も塔を降りる準備が整っていたわけではない
何故なら、塔を降りるには幾つかの条件を揃えることが必要だから

この条件は101回レヴュースタァライトの台本に書かれている

前提:囚われ変わらないものは、やがて朽ちて死んでいく
提言:だから生まれ変われ
条件①:古い肉体を壊し、新たな血を吹き込んで
条件②:今いる場所を、明日には超えて
条件③:辿り着いた頂に背を向けて
結論:今こそ塔を降りる時

つまり、塔を降りる為には生まれ変わる必要があり、その為に条件①~③を満たさなければならない

一方的な退学で周囲との関係に決着をつけなかったひかりは条件②を満たせず、99回スタァライトへの未練/純那への執着が残っていたばななは条件③を満たせなかった。

※ひかりの新たな目標は(推察するに)「一番のスタァになること」だが、聖翔を出て行くときに「華恋に負ける恐怖」と向き合わないまま飛び出してきたので、目標へ向かう力が恐怖心に負けてしまっている。但し、未練を断ち切って大海原へと踏み出したので、劇中でも死体は描かれていない。

他のメンバーたちも、現状への満足感や居心地の良さから、それぞれ旅立ちに不安を抱えている。まひる、純那、クロ、香子、双葉は条件①を満たしていない。また、天堂真矢は”神の器”という自己認識に囚われているので、このままだと朽ちて死んでいく運命にある。華恋は少し状況が異なるので後述。

以降のワイルドスクリーンバロックでは、この条件を満たすためにそれぞれが舞台に上がり、レヴューを演じる。①は『皆殺しのレヴュー』と決起集会の読み合わせのあと、皆が条件を満たした。(=私たちはもう、舞台の上)つまり、全員が「自分たちは塔を降りなければならない」と認識したことによって、ワイルドスクリーンバロックが起動した。

以下は各人の結果。

双葉:香子と並び立つ存在になるため、腐れ縁に背を向けて第一国立へ
香子:双葉の飛翔を待つため、彼女への執着に背を向けて京都へ戻る
まひる:輝く舞台女優になるため、恐怖に打ち克って舞台に上がり続ける
ひかり:一番のスタァになるため、華恋への恐怖心を克服する
純那:煌めく主役を掴むため、敗北を恐れず役者を続けていく
なな:純那との再会を果たすため、役者の道を歩むと決意
クロ:真矢のライバルであり続けるため、研鑽し続けることを決意
真矢:いつまでもライバルとのレヴューを楽しむため、欲望を曝け出すことを決意

前文が②、後文が③の条件を満たす。双葉を例にすると、辿り着いた頂=実りある聖翔での生活 今いる場所=聖翔での香子を見上げる立場 超えた先=香子と並び立つ景色


整理すると、塔を降りる為にはこのような経路で準備が必要である。
①未練を断ち切る。新たな欲望を持つ。
②新たな欲望へ向けて努力すると決める。

③未練に背を向けて前へ進む。

ワイルドスクリーンバロックは先に①〜③の準備が整った方が相手を導く形をとっており、双方が自分の道を見つけた時点でレビューが終わる。

双葉→香子
まひる→ひかり
純那→ばなな
クロ→真矢


※掲載当初、条件②.③の順番が逆になっていました。文章に大きく影響しなかったのですが、多少のズレは出ていると思います。

ここまで話題に取り上げなかった華恋は、100回までのスタァライトに満足感を抱いており、”未練”という概念を持っていない。しかし、結局のところスタァライトを完成させたメンバーは全員が卒業してしまうため、このままでは朽ちて死んでしまうことになる。そのため、ひかりは「新たな欲望の対象」として自身の存在を華恋に見せつけ、彼女の中の闘争心を引き出した。

新たな欲望が生まれた時点で、スタァライトへの満足感/運命の手紙に対する執着は”未練”となる。しかし、華恋はあまりに長くこの感情を持ち続けていたため、単に新たな欲望を認識するだけで過去と決別するのは難しい。そこで、ひかりは華恋を突き刺す(未練を吐き出させる)ことによって彼女を空っぽの状態に戻し、新たな欲望を詰め込むキャパシティを用意した。

ここまで”塔を降りること”を主題として書いてきたが、あくまでこの作品は「私たちはもう、舞台の上」というテーマを軸に物語を組み立てている。何故なら、塔を降りた後も彼女たちの物語は続いていくため。ワイルドスクリーンバロックで皆が抱いた欲望を叶えるのは”この先”のことであり、劇場版で獲得したのは今後に対する初期衝動にすぎない。EDとラストで卒業後の彼女たちを描いたように、夢を叶えるための努力はまだまだ続いていく。そこまで見据えた上で、”塔から降り、目標へ向かう道”を「舞台の上」と表現している。

また、冒頭で”それぞれの道を進んでいく者”を「99期生たち」と記したが、これは星光館+ひかりの9人だけでなく99期生全員のことを指す。公演スタァライトは同学年の総力を挙げて作り上げるものであり、卒業後はそれぞれの道へ進んでいく。「遥かなるエルドラド」は、祖国エスパニアを聖翔学園に見立て、そこから離脱するひかりを追求する意図が盛り込まれている(と思われる)。それ故ひかりには塔を降りる資格がないはずだが、まひるに「ヘタクソ」「もっと本音で話せ」「もっと感情出せ」と散々叱られた後に許され、受け入れられたことで、彼女にも99期生と同じく塔を降りる権利が与えらえた。また、それぞれが立てる目標は何を指針にしてもよく、実際にふたかお/じゅんなな/真矢クロはお互いを先へ進むための動機として捉えている。しかし、華恋がひかりを目標にしたのに対してひかりやまひるは個人的な願いを目標としており、より自立的である。

いずれにせよ、彼女たちは99期生での生活を終え、皆で集まっていた一纏まりの状態から、塔を降りて一人一人の人生を歩んでいく。その為に学校から課せられたものや、集団の目標を追うだけでなく、自分だけの目標を作り上げる必要がある。更に、塔を降りて(卒業して)からも自分の道を歩むためには、その目標への心意気をより強く、太いものにしなければならない。そこで彼女たちに与えられた機会がワイルドスクリーンバロックであり、本音を持ってぶつかり合うことで自身の目標に気付き、認め合い、自分自身を確立していく。楽しかった日々に別れを告げ、前向きに目標の達成を目指し、希望を持って大空へ羽ばたく。私たちはもう、舞台の上。少女たちは可能性を求めて、今日もどこかで舞台に立っている。

 

サムネイル画像引用元:サムネイル引用元:©Project Revue Starlight 

 

『しずくモノクローム』感想の、あとがきのようなもの

今日もマウスを持ち忘れ、2日連続タッチパッド作業のとらです。ある程度方向性が固まったので、今回からブログ名が変更されています。「見る・聴く・触れる」もの全てを題材に出来るよう、視聴体験という言葉を使いました。日頃から創作物に触れる機会の多い人間なので、これが一番適しているかなと思います。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 

さて、昨夜掲載した『しずくモノクローム』の感想記事、ご覧になられましたでしょうか。まるで前触れのない投稿であり、普段から璃奈、かすみ、せつ菜に熱心な自分がしずく回を選ぶ必然性もないので、驚かれた方もいるかもしれません。

 

実のところ、初期計画においてはもっとさり気無い、個人的な感想を主体にして公開するつもりであり、昨夜の分析的な文章は「ついで」になるはずのものでした。

 

それが存外しっかりとした構成になったので、独立して先にあげ、編集後記として本来上げるはずだった方(「ついで」になってしまった)を一日遅れで掲載することにしました。

 

二週間前の文章を(ほぼ)修正せず、そのまま載せます。こちらの方が8話やアニメ虹ヶ咲に対する思いを直接表現しているので、人によっては面白いかもしれません。

 

注意:記憶違いなどもあるかもしれませんが、ご容赦ください。

 

【編集後記】

自分の中の「桜坂しずく」像は、殆どが1st LIVEの『オードリー』で作られました。雨中を往く少女の映像と、傘を使って華麗に踊るダンス。印象に残る演出の中で、かなり強烈なイメージがこちらに降って来たのを覚えています。

 

既に周知となった通り、彼女は単なる演劇好きでなく、内面に暗い自己認識と、自分への嫌悪感を抱えた女の子です。ライブ当日にアニメ化が発表されましたが、彼女について〈本当の自分〉が主題となり、先日放送されたようなお話が展開されることについては、大方予想がついていたと思います。

 

しかし自分は1st LIVEでの『オードリー』を、「自分を表出できない」というより、「自分が存在しない」少女として捉えていました。演じることは好きだが、未だ自身の内面を確定できず、雨に濡れながら踊る姿。そんな表象を感じ取ったのは、映像として流れる雨が、内面(心)の揺れとして映ったせいかもしれません。

 

その為、「何物でもない女の子」が内面を探求して自分を確立し、桜坂しずくに「なる」物語(→より好きなジャンル)が描かれるかもしれないことに対して、期待を膨らませていました。

 

しかし実際に描かれたのは、仮面の少女が桜坂しずくという“本当”を出すようになるまでの物語。残念ながら、自分の見たいものとはズレがありました。勿論、彼女を描写するのであれば、薄っぺらい優等生の仮面を外し、清濁併せ持った自己を表現できるようになるお話の方が圧倒的に正しいのです。それでも一度組み立てられた形が脳裏から離れず、一周目は上手くストーリーに入り込めませんでした。

 

とは言え最初の24分間で既に、このお話は美しいと思えていました。理由は(好きな物語が見たい感情と同時に)どんな形であれ虹ヶ咲の子たちの魅力が伝わってほしいと願っていた自分にとって、桜坂しずくというキャラクターが強く視聴者の心に刻み込まれると確信できる、素晴らしいエピソードだったからだと思います。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 

今アニメを見ている視聴者の方にはピンと来ないかもしれませんが、虹ヶ咲は想像より遥かに血なまぐさい競争を経てアニメ化に辿り着いたコンテンツです。毎月キャラクターランキングが(最下位まで)発表され、企画に採用されるキャラもファン投票で決められるが殆ど。

 

その中で、一目で魅力を理解することが難しいしずくや、逆に一目見た以上の魅力(奥行)を与えるのが難しい彼方といった面々は、やはり不利な立場に置かれていたし、スクスタでも序盤の出番には格差があり、同じ土俵で勝負するための平等性が十分に確保されているとは言い難い状況でした。

 


※璃奈はボードを外すまで素顔が分からなかった為、尚の事苦戦していました

 

だからこそ、個別回が「璃奈・彼方・しずく」の順に並んでいるのを見た時、製作陣の“本気”を感じて、とても嬉しい気持ちになりましたね。何故なら彼女達の魅力を描き切る為には、このアニメがどんな雰囲気で、どのようなキャラクターで構成されていて、何を目指しているのか、十分周知されていることが必要だったからです。24分間を彼女等の物語“だけ”に絞れるようにした上で、最高のストーリーを仕上げるのだという気迫が伝わってきたし、実際に凄まじい完成度のお話を毎週叩き込んでくれました。そのような製作陣の尽力のお陰で、解釈違いを起こした中でも極めて肯定的に物語をとらえることが出来たかなと思います。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 

それでもやっぱり、普段なら絶対にないセリフの聞き逃しや、「こんなキャラいたっけ?」という見逃しが散見され、事前に構え事をしてアニメーションを見るとなかなか大変だなという事を実感する経験になりました。

 

ここまでが先に作成されていた文章です。

 

 

これが放送直前のツイート。‘‘楽しみ’’というのは上記の意味。

 

今考えると虹ヶ咲=「個」の物語なのでそれが見つかっていないところから描写するのはまあ無いのですけど、思い込みとは難しいものだと実感させられます。

 

さておき、いよいよ11話放送ですね。ここまでさり気無い描写に収めてきた歩夢ちゃんの‘‘爆発’’が見れることへの期待を記しつつ、本文は締めさせていただこうと思います。お付き合いありがとうございました。

 

ラブライブ! 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会8話 『しずくモノクローム』 感想

自分を演じる少女と、自分を信じる少女の物語。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 

『しずくモノクローム

 

‘‘影’’を恐れる少女、桜坂しずく。彼女は自身の感性が希少な為に奇異の目で見られるのではないかと恐怖し、嫌われることにも強い忌避感を抱いている。

 

あたかも手のかからない優等生のように振る舞い、胸の内にある演劇への情熱や、普段の生活でふと抱くようなズレを隠して生きてきた。その努力は彼女に平穏を与えたものの、感情を切り捨てたことで強い自己否定感に苦しみ、8話冒頭では、「自分を曝け出せない」ことが原因で(演劇部の)主演を降ろされてしまう。

 

誰だって、本当の自分を曝け出したい。継ぎ接ぎだらけの毛布を捨てて、自分を好きになりたい。その願いとは裏腹に、仮面の少女は恐怖や不安をうまく表現できない。“影”の部分を表した時に迫ってくるかもしれない、様々な困難に立ち向かう勇気がないからだ。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 

だから、誰かが引っ張り上げる必要がある。今回彼女に力を与えるのは、いつでも『私超かわいい』を貫くスーパーナルシスト、中須かすみだ。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 

僕たちは、中須かすみが「世界一カワイイかすみん」であるために、自身の“影”の部分をむき出しにし、ライバルを威嚇し、返り討ちに遭うところを見てきた。彼女は人の最も泥臭いところと向き合い、その願いが逆風や葛藤を生み出そうと、真正面から立ち向かってきた女の子だ。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

歩夢にドン引きされたり、せつ菜・果林に詰められたり…8話冒頭でも、しずくがインタビューを受けている後ろで、さりげなく‘‘笑い’’を引き出している。人の感情を自然と受け止められるのが、かすみんの強いところだ

 

そんな彼女の強さは、しかし前半部においてしずくを助ける手立てにならない。「パーッと遊んでストレス解消」は、あくまで中須かすみを勇気づける方法だからだ。桜坂しずくに力を分け与える為の手段としては、的を外してしまっている。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

お行儀よく‘‘遊べる’’こと、それが彼女に与えられた才であり、苦悩でもある

 

けれど、友達に(強制)連行された先で気の緩んだしずくは、自身と深く結びついている演劇の世界を見て、瞳が揺れる。普段なら厳重に鍵をかけられ、決して表には出てこない本音が零れる。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 

天王寺璃奈は、その揺らぎと、即座に笑顔の仮面を付け直し、平気な顔に‘‘なる’’しずくを見逃さない。それは「どうしても人の目が気になってしまう」経験に悩み、仲間の支えによって道を切り開いてきた彼女にだけ見える景色だ。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

「受け入れられないかもしれない」恐怖を真正面から踏み倒してきたかすみんより、その恐怖に圧倒されて孤独感と戦い続けてきた璃奈の方が、しずくへの視点に近い。

 

だから、かすみへの橋渡しは彼女が務める。6話を超えた璃奈は、誰かが自分に寄り添い、励ましてくれることの意味、それがもたらしてくれる力を知っている。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

強い意志のこもった、彼女らしい真剣な目。この‘‘らしさ’’もまた、一つの物語を超えて生まれたものだ

 

けれど、言葉にして想いを伝えるなら、自分に相談を持ちかけてきた…しずくと多くの時間を共にし、パーソナルゾーンに踏み込めるだけの‘‘特別’’を作ってきた、貴方の方が適任だ。璃奈に目で訴えかけられ、かすみも自分のなすべきことに気付く。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

りなりーの役目はここで終わりだが、「ファイト!」の直前、ボードを出す時の表情が、彼女の芯の強さを感じてとてもいい。

 

かくして、物語はクライマックスを迎える。追い込まれたしずくは、教室の隅に引きこもっている。親友すら拒絶し近寄らせない、堅牢な絶望の果て。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 

それを崩すために、かすみは”光”の部分へ踏み込み、率直な想いを届ける。頑固でもいい、意地っ張りでもいい。だけど、せめて自分の前では辛い顔を隠さないで。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

それはしずくの引きこもりたい願望を無視した我儘で…けれど4話の言葉を借りるなら、彼女を助けるための「良い我儘」だろう。

 

ゼロ距離の熱意によって、やっとしずくの本音が引き出される。人が怖い。必ずしも綺麗なだけではない、複雑で、未確定な人の心。その内面に潜む”影”が恐ろしくて、激しい衝突や葛藤に晒されたくなくて、自分の方も感情を隠すようになった。

 

その仮面は、最早外そうと思って外せる段階を超えて、心の奥から常に自分を責め立てている。自分の苦悩すら晒せない私に、人を惹きつける演技なんて出来るわけがない。だから私は、あの子を演じる資格も、スクールアイドルを続ける自信もない…

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 

背を向けた友人に、かすみは手を振りかざし…デコピンに思いを乗せる。しずくの絶望に触れても、彼女は前を向き、言葉の中に想いを託す。確かに、皆が自分を受け入れてくれるかどうか分からない。バカにする人だっているかもしれない。けれど、何が起こっても、どうあろうと、私は貴方のことが大好きだから。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 

その熱量を叩きつけられるのは、人の心にある‘‘影’’や、自己認識と現実の溝といった激流に晒されながらも、彼女が「かすみん」であることを諦めなかった証左だ。周りに何と言われようが、一番カワイイのはワタシ。譲らない信念が、友人を解き放つ力になる。

 

この世界中でたった一人だけの私を もっと好きになってあげたい

この世界中の全員がnoだって言ったって 私は私を信じていたい

無敵級*ビリーバー/中須かすみ(CV.相良茉優)

 

けれど、 (だからこそ)彼女は桜坂しずくの心うちを完全には理解できない。人と人の間には必ず断絶があり、ぴたりと一致することはない。それに、かすみがどれだけしずくを思いやろうとも、全く別の場所から降る槍には干渉できない。

 

それでも辛い時は、苦しさを半分個に出来る。喜びを分かち合って、共にすることが出来る。『あなたと叶える物語』―それが、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会のコンセプトだ。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

アニメ虹ヶ咲は、「ソロアーティストの9人が、スクールアイドル同好会に集まる理由」にも焦点を当てた物語だ

 

熱いラブコールを受けて、しずくはオーディションに合格し、舞台へと立つ。心にずっとしまい込んできた、「やっぱり歌いたい」という感情。それを真正面から受け入れて、白と黒が混ざり合う。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 

苦悩を感じさせる、雨の降りしきるステージ。けれど、雨は彼女の味方だ。どれだけ強い雨が降っていようと、やがて空は晴れ渡り、虹がかかる。そして虹がかかれば、彼女はもう迷うことはない。長く振り続けた雨が、そこから引き上げてくれた貴方が、一つの「桜坂しずく」を連れてきてくれた。もし(外の世界に)雨が降っても、内なる自分が揺らがないのなら、怖いものなどない。

 

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©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 

というわけで、演劇は大成功、かすみんの手首は高速回転、『本当の私を見てください』で8話終了である。「本当の自分」というテーマは普遍的過ぎるが故に難しく、ともすれば桜坂しずくというキャラクターごと埋没しかねない(誰でも同じ)にも関わらず、たった20分でここまで視聴者の心に刻み付ける物語に仕上げる脚本陣、本当に凄まじいと感じさせられましたね。

 

(以下ゆる~く私的な感想)

 

正直、「本当の自分」というテーマなら、自分を表出できないことよりも、自分が存在しない=自己が確立していない=無限の可能性がある(yes 放課後のプレアデス)という展開の方が好きだったりします。実は虹ヶ咲1stで『オードリー』を浴びた時に、もしかしたらしずくちゃんの物語は、プレアデスに近い話なのかなと、密かに期待したりしていました。その願いは叶いませんでしたが、8話は桜坂しずくという人のエピソードとして、完璧に近いものがあったと思います。本文がその補佐として、何かしらのお役に立てたなら嬉しい限りです。

 

時節としては残すところ二話、11話放送も明日にまで迫ってきました。物語がどのような形で終わりへ向かうのか、それとも希望や目標を残して次のステージへ進むのか、まだなんとも言えないところですが、放送を楽しみに待ちたいと思います。

天気の子 感想

 

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©️『天気の子』製作委員会

 

君の名は。』でメガヒットを記録し、巨大なバックボーンとそれ故の縛りを受け持った新海誠監督。最早前作の風評から切り離されることは叶わず、社会からも夏のエンタメ作品を期待されている。そんな中で彼が送り出してきたのは、東京の「今」を鋭い視点で切り取り、現状に対する強い危機感を滲ませながらも、ボーイ・ミーツ・ガールの型を外さない『天気の子』であった―

 

というわけで『天気の子』感想です。

見る前はどうせエンタメラブラブストーリーでしょ〜とタカをくくっていたのでブログなんかより終わった後の昼飯を考える方が重要でしたが、114分間に込められた監督の「伝えたい」「伝わってくれ」という強い想いを感じ取り、上映終了時には感想を書き起こすことを決めていました。7/19(初日)に見たので前日までの曇り空が一転、快晴の東京という天気の祝福をこの目で見ることができたのも感動しましたね。

 

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川崎で見た直後居ても立っても居られず、途中下車して撮った秋葉原の空。『天気の子』で映るのは逆(UDX階段側)なんだよなぁ…

 

公開から3週以上経過したため既に見た方も多いと思いますが、この先はネタバレを含みます。ご注意ください。


実のところ、公開前から「バイトル」や「カップヌードル」とコラボcmが放送される節操のなさに「あーあー、新海クン、色気付いちゃったねぇ。」と思っていたので、その資本を真っ向から裏切る形になっていたのは大変驚きましたね。帆高ファミリーが法律(秩序)を突破するに止まらず、最終的に自分たちの意思で東京(文明)を海に沈めたことからも分かるように、この作品は明らかに現代社会に対する否定的な要素を含んでいます。その凶暴な作品世界に没入出来た人間(🙋‍♂️)もいるとはいえ、山手線レール上を爆走し須賀に拳銃ぶっ放す帆高を見た後、どの程度の方が物語に付いてこられたのかには興味があります。説明不足の展開の中に制作側の主張を叩きつけ、共感出来ない客を置き去りにする程の熱量、又は自己満足を生み出す作品なので、消化不良の方の助けにもなるような文章を目指そうと思います。

 

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©️『天気の子』製作委員会

美麗に東京を切り取る新海誠の本領。なお沈む模様。悪趣味ですね〜

 

1-1.帆高を受容しない世界

本文章は「何故帆高は世界を救わなかったのか?」「救ってはいけなかったのか?」を解明することを目的にしています。その為に、まずはこの映画で帆高が都会に受けた仕打ちを整理しなければなりません。大まかな場面分けとしては3つ。


① 帆高が東京に上陸した直後

・ネカフェに泊まり込み仕事を探すものの、身分証がないため相手にされない

・ネカフェの店員には露骨に嫌な顔で対応され、野宿に切り替えた後はスカウトマンの嫌がらせに遭い、都会の冷たさに打ちのめされる

・3日間の夕食をマクドナルドのコーンポタージュで凌ぐ


② VSスカウトマン

陽菜を助け出そうとしてボコボコにされる。銃をぶっ放したことが警察から追われる原因となる。

 

③ 3人の逃避行

警察官にお尋ね者として追いかけ回された翌日、社会が陽菜を見捨てたことに気付き絶望する。逮捕後は頭のおかしな奴として扱われる。


このように、帆高は徹底して「大人の世界」から弾き出された上、帆高の要求が叶わないことを悟り、陽菜の犠牲を全く顧みない東京を水に沈めることになります。

ここから、「大人の世界」の問題点を解き明かせば帆高が暴走した理由を知ることが出来ます。

 

1-2.大人たち
では、「大人の世界」について細かく見ていくことにしましょう。主に3層構造になっています。


①『権力』の所持者。作品内で言えば、最も高い地位を持つ警察官。権力維持の象徴として描かれているため、かなりの悪者として登場している。


②スカウトマンやネカフェ店員のように『金銭』を目的とした労働者層。本当はこの上に彼らを使役する上層部がいるが、本編には登場しない。作中帆高に直接的な悪意を向けてくる⇔『権力』には無力。


③競争の中にいるが、社会の中心にいない非労働者。作中の人物では就職中の夏美


このようになります。「大人の世界」の大部分は②に属しており、彼らと他の人を繋ぐものは『金銭』。見知らぬ多くの人たちと出会う東京において、人々は「信用」をお金(モノ)に代えて取引しているため、相手の内実を知る必要がありません。特に都会ではクレームを受けないことや効率よく客を捌くことが大切であり、そのために人以外のシステムも最大化されています。具体的には、セルフレジや返却口、マニュアル化された対応など。都会の労働者は基本的に一定のリズムを守らなければならないため、客側にも同じく淡々と対応することが求められます。。帆高のようにそれを乱す場合、迫害されたり冷淡に扱われる対象になります。


他に当作品で登場する取引簡略化アイテムには『学生証』があり、個人の経歴を一目で特定出来るような工夫が凝らされています。しかし、これも「信用」の肩代わりでしかないため、打ち解けるとか心を許すなどの目的で使われることはありません。極端なことを言えば、『身分証明書』と『金銭』さえあれば人の中身はなんだっていいというのが都会の態度です。定式化・効率化を最優先にしており、不明確なものを排除していく傾向にある都会において、人の心や精神といった不明確なものを理解してもらうのは大変難しい。これは必然的なものです。


更には貧困層の弱みにつけこむスカウトマンのように、『金』さえ手に入れば相手のことなんてどうだっていいというビジネスも発展し始める。圭介は出版社の利益のために仕事を切られ、就職を目指す夏美も自身の利益を獲得するため「第一志望」という嘘を吐き続ける。誰かの心配をする必要がない社会で、企業や個人は自己利益や欲望だけを叶えるために行動するようになる。場合によっては他人を利用することも厭わない。これも必然の流れです。

しかし、「子どもたち」はそういうものは求めない。ここに第一の問題点があります。

 

 問題点の整理 その1

子どもの要求と、金銭や自己利益を目的として動く社会が合わない

 

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©️『天気の子』製作委員会

ありとあらゆる場面で理不尽な目に遭う主人公兼狂人。名前のせいで序盤は山賊の顔がチラついて仕方がありませんでした。

 

2.子どもたち

次に「子どもたち」の要求を確認します。帆高の場合K&Iの月給3千円を受け入れ、住み込みで働いていました。彼が切望していたのは「居場所」です。額面が安かろうが、仕事で怒られようが、家庭的な暖かささえあれば暮らしていけた。安息出来る居場所というのは、帆高が「森嶋帆高」として認識されていなければありえないこと(RADWINPSの言葉を借りれば「愛」)であり、都会では非常に獲得が難しいものです。結局、このユートピアも夏美の就活や圭介の縁切りによって潰えてしまうことになります,

@圭介が手切れ金を渡す際、彼は帆高の名前を一度も口にしません。圭介は帆高を無名の「少年A」に戻し、これによって無関心を装おうとします。


一方、陽菜は晴れ女の仕事によって「繋がり」を獲得して行きます。こちらは『金』を動機として仕事を始めますが、陽菜に報酬金3040円の過不足を問う気はありません。彼女は『金』よりも自身の役割や生きる意味を深く求めているため、依頼人の‘‘思い’’を受け取り、その達成に貢献することを最も重要視しています。仕事を終えた時点で既に依頼人の心と自身の心に結びつきを得ているので、金額の超過や不足で関係や態度が変化することはないのです。

当然ながら、晴れ女のように特定の‘‘誰か’’に対して自分の力を使い幸福を届ける仕事は、都会が一般的に求める能力の発揮とは違うものになります。

@社会が一般的に求める能力=名前のない「大衆」や「顧客」に対してサービスを行えるか、裏方的にそのサービスを企画する能力。コミュニケーションもあくまで営利として求められる


中盤に自分たちの願いを叶えかけた二人ですが、後半は「居場所」さえあれば良かった帆高と、自身の「価値」も晴れ女に預けてしまった陽菜で明暗が分かれてきます。帆高は単に縁を切られるだけで済みますが、陽菜は天気の巫女として生贄になるところまで行ってしまう。「大人」として認められるには、「僕たちは君にサービスを与えたんだから、何かお返ししてくれるんだよね?」という社会の要求に応え、相応の『能力』を発揮する必要があります。しかも、この『能力』は社会にとって有用なものに限定されています。つまり、折角何らかの才能があっても、社会的に有用でない場合は使うことが出来ません。更に厄介なことに、社会は『存在』それ自体を肯定しないので、この『能力』による奉仕の要求は脅迫めいたものになります。(1)そのため、「大人になりたい」陽菜は自身の『存在』自体に価値を感じられず、『能力』によって「大人」の仲間入りを果たそうとします。

(1) 社会は人の中身や精神を必要としない、寧ろ排除すると書いた通り、少なくとも存在それ自体は価値のないものです。晴れ女でない陽菜は社会にとって「少女A」でしかないのです。


ところが、自分の生きる意味を見出すために『能力』を使うというのは本来歪なものです。月並みな言説ですが、人間は誰もが生きる権利を持った平等な存在のはず。それなのに『能力』の中でしか「繋がり」を得ることや自身の価値を見出すことが出来ないと、『能力』が無い/失う=自己価値の喪失になるため、陽菜のような弱者は限界を超えてすり潰されてしまう。更に殆どの人間は私欲を満たすために行動しているため、一度潰れた人間を省みるようなことはしない。陽菜が体良く社会に利用され、最終的に見捨てられる構図もまた必然に浮き上がってくるものです。これが「大人の世界」、二つ目の問題点になります。

 

問題点の整理 その2

・子どもは「心から」人と繋がることを求める⇔大人は人に無関心でいるよう努める

・自身に価値を感じるためには、都会の要求する『能力』を発揮せねばならないが、消費された後は呆気なく捨てられる

 

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©️『天気の子』製作委員会

ヒロイン。かわe

最序盤はもしかして棒…?と思いましたけど、陽菜ちゃんも夏美さんもしっかりハマってましたね。

 

3.権力者たち

では、治安維持に務める警察官はどうなのか?

彼らは元々正義感が強い人間であり、本来弱者を見捨てるような人々ではありません。ですが最初に書いたように、警察官はこの世界を維持している人たちです。『正義』はある一つの秩序を肯定しなければ成り立つことはありません。彼らは当の秩序が陽菜のような弱者や心無い人々を生み出し続けているにも関わらず、無批判にこれを受け入れ、我々を狂った世界に縛り付ける虚偽の良心なのです。『統制』を行う権力者の存在によって、「勇気」や「希望」、「絆」といった不明確な要素が復古する可能性は摘み取られ、「愛」は狂気と化し、また同じように弱者は搾取される。そのために、新海誠は本当の弱者を助ける存在として彼らを描かない。小さな正義に陶酔し、大いなる間違いに気がつかない大バカもの…彼らはそういう立ち位置なのだと思います。(警官の解釈については、余談でもう少し語りたいと思います。)

 

問題点まとめ その3

 

「二重の排除」

 

子どものような『能力』がない弱者は『存在』を肯定されない。

『能力』がない弱者は、数少ない資源(例:水商売=身体)を使って自身を消費し、何とか「繋がり」を得ようとする。

資源が消費され尽くすと、一時的に振り向いていた人々は弱者に「利益」を感じなくなるので、当然に見捨てる。=社会からの排除

法秩序は、①(根本原因)の現状を見て見ぬ振りし、そのために発生する諸問題(②-③-自殺等)からも目を逸らし、疲弊しきった弱者に正義を振りかざす=権利からの排除

 

4.暴力について
ここまで、帆高の暴走は「大人の世界」が子どもたちの要求に応えないどころか、陽菜に「大人」になることを要求し、天空に連れ去られるまで消費し尽くしたことに関係があると説明してきました。これに加えてもう一つ、「上から下へ」流れているものが分かるでしょうか?それは暴力です。帆高は親に、警察に、スカウトマンに殴られ、地面に叩きつけられる。圭介は「親権」に太刀打ち出来ず、夏美は「一個人」として「企業」の前に立ち竦む。権力や強さを利用した暴力は、凡ゆる「思い」を超えて弱者を統制、強制することができます。それはコミュニケーションによる解決を拒否するという意思表示。「繋がり」というワードとは対極にあると言ってもいい。暴力は帆高と圭介の対峙でも使われており、圭介は帆高の唯一の理解者…つまり「親」になってあげられる立場でしたが、結局は帆高の父親と同じく暴力の下に彼を従わせようとしてしまったため、帆高と世界が手を取り合う最後の希望も閉ざされてしまいます。


作中では象徴的に描かれている暴力ですが、現実には我々を「大人」に引きずり込もうとする、「半暴力」とでも言うべき力が常に作用しています。子どもとして生まれ落ちた僕たちは当然この世界を肯定するものとして扱われ、「あれ、ちょっと違うんじゃないかなぁ」と思っても、「いやいや、そんなことないよ。それは君が子どもだからさ。いずれ分かるようになるよ」とあしらわれる。そして帆高のように「やっぱりおかしいじゃないか。そんなにこの世界が幸福に出来ているなら、何故陽菜さんは貧困状態で、世界に殺されなきゃ行けなかったんだ?」と主張すると、「なに!君はこの世界が嫌なのか。それなら出て行け!」という大変暴力的な態度が露わになる。殆どの土地が国家や人々に「所有」されている現代において、逃避先を見つけるのはほぼ不可能であることも、この事に拍車をかけていますね。

@実際社会に意思はないので比喩的な表現ですが、「特定の犯人や悪の執行者が見つけられない」→「全体の意思」となります。

 

例としては自己責任論があり、これはまさに「社会が悪いか/個人が悪いか」に問題を二分し、責任を個人に帰属させることで問題を顕在化させないという「暴力的機能」を有しています。断言しますが、ある一定の困窮状態に陥った人々には何かしら自己責任に帰せるものが見つかります。それを一つでも見つけた時、人は「自己責任が生じた背景」や「貧困に至るその他諸々の条件」を忘れ、貧困当事者…顕在化した被害者だけを裁こうとします。そうすれば、外の不備は「見えなくなる」ので、一見問題が解決したように見えてしまう。社会は‘‘危機’’を脱出し、被害者だけが増えていく…ということになります。

条件の例としては、いじめ、貧困、差別、不当解雇、社会保障の不備などです。


ここには、‘‘違和感’’を個人の気の迷いに落とし込むことで責任逃れする社会の実態や、社会が僕たちに『能力』を求めるのに対して、僕たちは社会を無条件に愛さなければならないという矛盾が含まれている。

そもそも僕たちは、殆どが生まれた時から同じ社会体制の中で生きています。社会に軋みが起きれば問題を解決しようと試み、より良くしようとするのが健全な形であるはずです。しかし、「大人になれ」という言葉は、それ一つで問題を破壊してしまう。犠牲者を乗せたまま歯車を回し続けようとする。その中で声を上げずに「大人」と同化しようとしたところで、辿り着く末路は天上に連れていかれた陽菜か、地上でくたびれる圭介の二択でしかない。それを見た帆高は徹底的に反抗し、都会を破壊へと導く。社会の声を受け入れても死者は帰ってこない。「大人」と握手することは即ち現状の肯定であり、陽菜という‘‘愛’’を育んだ人との永遠の別れを意味する。僕たち(個人)と社会(経済)は最早和解の余地が無いほど断絶してしまっており、秩序自体を破壊しなければ都会の前進を止めることはできない。それでも、帆高は世界(経済)を選ばない。帆高が陽菜を求める‘‘愛’’ゆえに、現状を肯定するという選択肢は絶対に浮かび上がってこない。帆高が真っ直ぐな意志を貫いたことで、無機質な東京は雨の中に沈んでいく…

 

帆高が世界を救わなかった理由

①都会は子どもたちの要求には答えない。それどころか、『能力』を提供しろと呼びかけてくる。

②『能力』を提供しても、体良く使い捨てられる。異議を唱えれば「大人」という暴力的な圧力を用いて問題を隠蔽し、被害者を包み込んだまま前進し続ける

③陽菜さんを救おうとしないなら、その世界を肯定するような世界なら、俺は天気よりも陽菜がいい

 

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©️『天気の子』製作委員会

大人代表。めっちゃかっこ悪いやつ。でもすき

 

5.まとめ
帆高が世界を救わなかった理由を一つ一つ解き明かしてきました。「大人」との断絶が確定した帆高は圭介に銃口を向け、ただ陽菜に会いたいという「思いの実現」を目指す。暴力はあらゆる権利を超えて強者に対抗できる手段でもあります。だから圭介を突破するために使うのは銃しかあり得ない。ここでやっと圭介が奮起し、ただ帆高を守るという‘‘愛’’だけを持って警官を殴り飛ばし、帆高の銃声によって開幕した「下克上」を完成させる。そうして‘‘愛’’は勝者になり、主人公は多数の被害者を出す大災害を引き起こすことになる…

 

2人が再会するために世界を犠牲にしたことの必然性は、ここまで書いてきた通りです。自分としては帆高が法律を突破し、多数の人に迷惑をかけたからこの作品は受け入れられないという人に、「そうじゃない、本当に身勝手なのはこっち(帆高)じゃないんだよ」と伝えられたら嬉しいかなと思います。都会は「ネコ」(圭介→帆高→アメ 夏美→陽菜→帆高)を救おうとはしない。そういうことは社会にとって効率的ではないから切り捨ててしまえばいい。警察のような「統治者」は今の現状を肯定していることが前提なので、根本的な困難を解決する気はない。そんなのは違うだろうと。本来法律は僕たちを守るためにあり、社会は人を幸福にするものでなければならないはず。それなのに、作中の権力や社会は「現状維持ゲーム」にしか使われていない。みんな市場の体現者の顔をして、帆高の声より社会の適切な運営を選んだ。それでも帆高は、天気の巫女として生贄にされた陽菜と、散々都会に殴り倒される自分自身と、それを気にも留めず日常を送る人々を見てしまった。‘‘声’’を上げなければならないのに、個人の力はあまりに弱く、即座に鎮圧されてしまう。その間にも死者が生み出され続ける…このような世界はやはり正しくないのでしょう。社会が現状を正しく認識し、解決策を提案していれば、そもそも闇を閉じ込める「蓋」は存在していないはずなのです。帆高のような最も弱い立場ではなく、新海誠という「勝者」の視点からでさえ、「現状維持」を選び続けているはずの現代社会が、実は緩やかな「滅び」へ向かっていることを発見してしまった。だからこそ今回のような物語が描かれたはずなのです。本当に全てがこのままでいいのだろうか。もしかしたら我々の社会の動かし方はちょっと間違っているのかもしれない。少しくらいは、改善の余地があるのかもしれない。そういう風に考えてくれると、帆高をスマホカメラで撮影していた‘‘傍観者’’から、一気に社会を作る一員としての‘‘当事者’’に引き込むことができる。というより、なってほしい。新海誠はそういうことを願ったのではないかと思います。

 

また、この文章では出来るだけ社会の不備を指摘しましたが、帆高を善人として扱うことはやはり正しくないのかもしれません。実際、自分も彼の行動全てを肯定するわけにはいかない。「帆高のせいでどれだけの人に影響が出たと思っているんだ。直接的な人的被害、故郷を失う精神的苦痛、政治体制とインフラの崩壊!こんな行為を許していいはずがない!」という正義感は当然持っているべきものですし、健全な感性であると思います。

帆高の行動をどうしても受け入れられないのであれば、陽菜側に焦点を当てて考えてみてください。自身の置かれた状況を「そんなもんだよ」と受け入れさせられ、「ホラ、君の生きる道はこっちだよ、頑張って」と水商売に足を踏み込まざるを得なくなる。最終的に‘‘死’’を経験する結果となった背景には、「大人の世界」に多大な負荷をかけられながら、それを肯定し飛び込むしかなかった弱い彼女の姿がある。

帆高に心から共感出来ない健全な感性を、陽菜という「権威に虐げられ続け、たった1人で全てを背負うしかなかった」被害者に寄り添う形で発揮すること。僕はそれだけでも大きい前進になるのではないかと考えています。そして、『天気の子』がそのような感覚を育むことを願っています。

 

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©️『天気の子』製作委員会

かわe(2回目)

ラストシーンからのタイトルロゴがドーンめっちゃいいですよね

 

ここから余談です。まずは瀧くんと三葉について。

立花家は「繋がり」を体現する家として相応しい場になっています。前作で田舎の酸いも甘いも経験し、「結び」という繋がりを得た瀧くんと、(恐らく)既に年金生活であり、社会の中心から切り離された瀧くんのお婆ちゃん。街も都心から離れ、未だ立花家に宗教的行事-それはつまり、「霊魂」との繋がり-が残っていることも伺えます。過去のムラ的な社会は、現在身の回りに見える繋がりだけではなく、過去の人々との繋がりまで射程に入れていた。立花家のシーンは、全体的に昔ながらの日本への懐古のようなものが見えます。また、今回は殆ど田舎街に対するネガティブな情報がありませんが、その辺り、「お前らどうせ前作見てるよな?」という信頼感のようなものを感じていいですよね。前作で束縛だらけのクソ田舎はしっかり表現されていますし、何しろ250億の大ヒット作品ですからね。


次は三葉について。今作の東京は水に沈んでしまうため、『君の名は。』のキャラ、しかも東京に憧れを抱いていた彼女を出してほしくなかったという声もあるかもしれません。しかし三葉はこの作品の中でほぼ唯一、都心での労働に従事しながら、「繋がり」を失っていないキャラなのです。前作の彼女は田舎の風習や家族の問題に振り回され他人のことまで考える余裕がない女の子だっただけに、「少年A」でしかない帆高に寄り添い、何でもない恋路を応援する場面を任されたことには大きな意味があったと思います。ああ、東京が海に沈んでも、彼女は「大丈夫」だと思わせてくれる強さを感じ取ることが出来るシーンだったと思います。(ところで、『君の名は。』で瀧くんと再会するシーンの時間軸、整合性取れてるんでしょうか…)

 

本編中の警察の立場について。

ネットを見ると「警官は正しいことしかしていない」という意見が多く、確かにその通り(法的には◎)なのですが、僕は正しいこと‘‘だけ’’をしている人間を表現する時に、あれ程主人公を地面に叩きつけるような姿を強調しないと感じています。やはりどこかに、警官を暴力的装置に成り下がらせる間違いがあったのではないかと。ただ、その答えは作品全体に貫通しているテーマであって、警官だけが非難されるべき問題でもないようです。具体的には、「一般市民も警察官も、君たち全員が今の世の中を選んでいるんだよ。」ということ。『天気の子』に政府の役人や警察トップのような典型的な悪人は登場しません。その代わり、‘‘普通’’に生きている人間が何の気なしに悪意を向け、犠牲を見過ごす日常が繰り返し描写されます。そこには、確かに『権力』による統制はあったとしても、それを受け入れて生きている僕たちの姿があります。結局のところ、みんな現状を肯定している。権力は一定の人々の支持と同意によって成り立つという言説もあります。(2)皆でこの社会を作り上げている。警官も気がついていながら見て見ぬ振りするグループの一つでしかなく、少し上の立場にいたというだけだったのではないでしょうか。

 

(2) ハンナ・アーレント 1906-1975

ユダヤ人で、ナチスドイツから迫害された哲学者。詳細は調べてください。

 

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©️『天気の子』製作委員会

凪くん、君のアシストと叫びが一番最高だった

 

陽菜に関して…

①人柱について

これは完全に僕の考えですが、須賀の「1人の犠牲でみんなが助かるなら…」というセリフで‘‘犠牲’’の対象になるのは、陽菜は勿論、彼女と同じように心を踏みにじられ、極限に追い込まれるような「直接的被害」を受けた方々と、もしかしたら今も圭介のような目をして生きている殆ど全ての労働者たちまで含まれているのではないかと思います。全ての人々が少しずつ都会のために身を削っていて、たまたま頭から冷や水ぶっかけられたのが陽菜だった。別に悪いことをしたのでも無く、たまたま貧困に陥っただけという陳腐さが、簡単に底まで滑り落ちる現状の恐ろしさに拍車をかけていますね。

 

また、陽菜は個人的に扱いが難しいキャラです。彼女と児相のコミュニケーションは明らかに陽菜側が拒否的になっていますが、ここが円満な関係であればそもそも貧困状態にならなかった可能性もあります。何故2人の生活を選んだのか全く描写されていないので、「バラバラにされるかもしれない」という恐怖心がどこから出てきたのか推測出来ません。ここは自分も引っかかるところがあります。つまり、‘‘自己責任論’’を突破出来る解釈が作り辛いのです。「まあ、早合点する年頃だしね。」くらいしか思い付きません。(詳しく見ていないのですが、この間テレビで一時保護所が地獄のような場所だったという特集をやっていました。大変な偏見ではありますが、普通に生きている自分のような存在でも、いいイメージを持ち難いところではあります。)

挑戦的な見方をすれば、「陽菜は最初から児相に行っておけば良かったじゃないか!」と主張した時点で「君は今の社会にどっぷり浸かっているよ」と言うために、敢えて欠陥を残した可能性もあります。何故なら、陽菜は「貧困か、施設か」の二択しか選べない状況にいる。本来なら「貧困も、施設に入る現状も」解決しなければならないのに、この二択を押し付けて満足することは「貧困も、施設に入らなければならない子どもも」肯定するということになります。それでは問題が見えてこない。もっと志を高く持てということかもしれません。多分違いますけど…

 

書き尽くしましたので、これで今回の感想を締めたいと思います。いやー、難産でした。公開初日に見て「新海誠ブログ感想要求了解~!!!」くらいのテンションで書き始めたんですが、「自己満足で書くよりみんなの理解を助けるような文章を書こう!」と変な気を起こし、案の定「頭とケツが繋がってねえじゃねえか!」という流れに…(正確には、全体の構成が繋がらないどころか着地点すら見つからない状況が続いた)

結局、2回目の鑑賞で得たヒントを元に何とか書き上げることができました。「暴力」については下一段の大きなテーマになっていますが、2回目の鑑賞以降に追加した要素なので、ちゃんと文脈が繋がっているか心配ですね…最初は直近の出来事と絡めて書こうかと思いましたが、リアルを挟むと‘‘責め’’が生まれてしまうのでやめました。それに頼らず十分な文量を確保出来て良かったです。

 


というわけで、読んで下さった皆様ありがとうございました。また更新する時はよろしくお願いします。